「死ぬVR」とは何か?
◇ ゲームで死んだら実際に殺されるVRヘッドセット
私、高野マナブという名前で画家、美術作家をしております。
主にウサギの絵を描いております。
コロナ禍ですっかり展覧会への出品や海外展示などの機会を失い、路頭に迷いかけ、我を失いかけておりました。
最近ではマンションのベランダを掃除しながら地面を見下ろし、吸い込まれそうな錯覚に陥ったこともしばしば。
「生と死と病」というテーマを軸に作品制作を行っている自分が実際に死を意識している皮肉に、なお落ち込まされました。
来年が卯年、うさぎ年ということもあり、今年の夏の終わり頃からやっと色々なお話しをいただけるようになってきました。
仕事が来るときは続けて来るもので、断りたくないから引き受け、時間とお金と作品制作に追われ、これはこれで心身すり減らす日々なわけで。
そんな中、友人が末期の癌だと知らされました。
ぼーっとしながら眺めたスマホで「ゲームで死んだら実際に殺されるVRヘッドセット開発中!」というニュースを目にしました。
その名の通り、ヘッドセットをつけてVRゲームをし、ゲーム内のプレイヤーが死ぬと実際の人間も殺される装置です。
◇ 不老不死@メタバース
ゲームで死んだら実際に殺されるVRヘッドセットにはなぜか嫌悪感はなく、まるで現代アートのカラクリのようにも感じました。
よくNFTとアートの関係を考えるのですが、これはその行き着く行き止まりのひとつかな、と思います。
良いか悪いかは別として。
AIに個人の思考や思想を学習させ、VR空間内で不老不死、永遠の命を持つ個人のアバターを作ることが行われているそう。
例えば余命幾許かの父親とこの先もずっと会話が、交流が、相談が、喧嘩ができる。
恋人と別れても永遠に愛の言葉を交わしあえる。
ここに違和感を感じる僕は時代じゃないし、きっと僕自身もそのうち違和感も感じなくなるのでしょう。
実際、僕のNFTを展示してもらっているメタバースの美術館には圧倒され、感嘆し、没入させられました。
そう、肉体はただの箱。
さようなら、メタバースでまた会いましょう。
そういうことです。
◇ NFTとプリントと絵画と生と死と愛
先日、NFTとアートの関係を考える機会がありました。
村上隆さんがNYでRTFKTの展示をしたとき。
NFTをキャンバスで展示されていたのだけれど、プリントではなく(カイカイキキのスタッフが)エアブラシで描いていました。
インスタグラムで制作過程を公開していました。
これは絵画である、芸術作品である。
我は芸術家である。
人類がラスコーの壁画を描いてから5万年経った時代の最先端の先っぽでキャンバスにCLONE-Xを描いている、そんな気概を感じました。
不謹慎ながら、芸術家は、死ぬVRゴーグルに似た何かを装着しています。
作品は本人を超え、時代を超えていきます。
渾身の作品が、評価されない、無視されるのは、作者にとって大袈裟ではなく死に直結します。
癌と闘う友人に言われた気がしました。
俺は生き残る、お前は死ぬなら死ね。
NYで9・11同時多発テロを経験したとき、逃げてくる人々に逆行し、できるだけ近くで、警官に押さえつけられるギリギリまで駆け寄り、写真を撮り続けました。
訳のわからない使命感に後押しされ。
僕には僕のやるべきことがある。
まだ死ぬソレは外せない。
でもまだまだ死ねなない。
もう一度、覚悟をしなきゃいけない。
今日また、死と向き合った自分の忘備録。
せっかく読んでもらったのに、独りよがりでごめんなさい。
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