見出し画像

野生でええやん。

数日前のこと。
高校3年生のお子さんを持つお母さんと話す機会がありました。
お子さんはコロナの後遺症で体調が安定せず、かといって病欠が正当な理由と認められないため頑張って出席していたのだけれど、授業中ぐったりしていたのを「授業態度が悪い」と判断されて、欠点になった教科があったのだそうです。
わたしが話したのは、ちょうどそういう連絡が学校から来てすぐのことで、わたしが「それはムカつく!!」とプリプリしていると、彼女はホッとした様子で「私もはらわたが煮えくり返るほどムカついたけど、この怒りが正当なものかどうかわからなくてモヤモヤしていた。学校に対して怒っていいのかどうか悩んでいた」と言いいました。

***

 三十年ほど前、ドイツの小説を翻訳していたときのこと。男同士の殴り合いの場面を訳しながら、わたしはそれまで味わったことのない高揚感を感じている自分に気がつきました。

「とっとと失せろ、この野郎! 貴様は疫病神だ、もとのドン底生活に戻れ!」

 なんなんだ、これは! こんなこと生まれてから一度もいったことない。なんていい気持ちなんだろう。胸がスカッとする。

女ことばってなんなのかしら?/平野卿子

これは、さいきん読んだ「女ことばってなんなのかしら?」という新書の冒頭の一節です。ずっと不思議だったんですよね。海外の女優や女性アーティストのインタビューの語尾に「のよ」とか「だわ」とかが入っていることが。
確かに、海外作品を読む時にセリフを口にしているひとの性別がわかるのはとてもありがたいのだけど、その国の文化にないものをないものを付け加えるのはいかがなものか?となんとなくモヤモヤしていたのです。

現状の自分の言葉に関しては、方言もあり「女ことば」という感じはあまりないのですが、それでも人生でいちども「この野郎!」なんて他人に言ったことはないんです。何かしてほしいときは「~してもらえる?」、やめてほしいときは「やめて」。「~やれ」とか「やめろ」なんて命令形がクチをつくことはありません。その点、夫は特に怒っていなくても、そういう言葉が自然に出てくるようです。

わたしが気になっているのは、ジェンダー格差とか性差別の話ではないんです。多くの女性が、そのパワーを常に抑えなければいけないと無意識に思っていて、影響力が乏しく弱弱しい存在であるかのように自らの言葉をつい弱めてしまう、この習性そのものなのです。

断定型の文章を書かない。「なんか、そう思った」とか「少し、そう感じた」みたいに訴えたいことを弱めようとしてしまう。ビジョンを書くときに「身近な人たちを」とか「自分らしく頑張る」と限定することで、自分の影響力を小さめに表現する。理不尽なことに直面したときに「やめろ」って言えない。

そういうことと、冒頭の「この怒りが正当なものかどうかわからなくてモヤモヤ…」という話は、どこか繋がっているような気がして、仕方ありません。

みんな、ほんとうはもっとパワーがあるんです。もっともっとパワフルなのに、それを隠すことにあまりにもエネルギーを使い過ぎていて、なのに周囲から弱弱しいひととして扱われることに、どこかモヤモヤしている。

もっと野生でええやん。

うん。もちろん自分に言っています。
来年のわたしは、野生やで。

***

この12月は、けいこさんさあやさんと一緒にアドベントカレンダーに参加しています!

ヒューマンデザイン・リーディング、申込み受付中です。

1月24日のファッションアテンド、1名キャンセルが出ました。ぜひ!


いいなと思ったら応援しよう!

すがこ
サポートいただけると、とっても嬉しいです!いただいたサポートは、良きエネルギーとして循環するよう、素敵なことに使わせていただきます。