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祝・藤川理論を始めて1年:これまでのふり返り(8)栄養不足の症状③通院と入院

2021年になったが、いまだに例の感染症騒動が続いている。栄養療法を実践している身なので、その観点からも必要のない我慢や不自由を強いられることへの抵抗感がとても強い。
強制された不自由には絶対に慣れないようにしようと心に決めているが、多くの人は適応し不自由を日常としてしまう。

わたしが今まで生きてきた中で最も不自由な経験をしたのは、精神科の閉鎖病棟に入院したときだ。
ティーンエイジャーの頃から常に境界性パーソナリティ障害の症状はあったが、初めて精神科に通院したきっかけは、大学院の博士課程を満期退学した後、当時付き合っていた人に病院に行こうと強く説得されたからだった。長い学生生活を終え社会に出なければならない段階になり、精神が不安定な自分には絶対に無理だと思い詰めたことで症状も悪化し、パートナーに多大な迷惑をかけていた。
栄養療法を知った今考えると、精神科に行くことは最善の策ではない。しかし、そのときパートナーがわたしを医療に繋げなければ!と責任を感じ、わたしのために行動してくれたことには感謝している。

初めて行ったその精神科は、今も一応通院している。入院設備があり、今までに2度入院を経験した。1度目は閉鎖病棟に1ヶ月、2度目は閉鎖病棟と開放病棟に合わせて1ヶ月入院していた。通院し始めた頃はパキシルが全盛期で、もれなくわたしにも処方された。わたし自身はあまり記憶がないが、飲みはじめてから攻撃的になった、とパートナーが医師に報告し、割とすぐ中止になった。そこからはさまざまな薬が複数処方され、それはこの連載の冒頭に書いた通りだ。睡眠薬や気分安定薬、抗不安薬などが一通り処方され、障害者手帳をもらい、障害年金も支給された。障害者としての生活が安定し、服薬が治療の中心だったが、どの薬も副作用があり、慣れるまでとても大変だった。慣れても強いだるさと眠気であまり動くことができず、自宅に篭るようになっていく。

パートナーの自営の仕事を手伝ったりしていたが、精神障害者になりまともに就職できない自分が恥ずかしかった。これでしばらくは社会に出なくていいという安堵はあった。しかし、社会からドロップアウトしてしまった絶望も強く感じていた。薬を飲んでいても体調はどんどん悪くなり、きっと今まで我慢していたものが外に出てきてしまったんだろう、と良いように解釈していたが、何のことはない、もともと栄養不足な上に、突然体内に入ってきた処方薬の処理のために、体に大きな負担がかかったのだと思う。

パートナーは当初は献身的に面倒を見てくれていたが、ボーダーパーソナリティ障害の人との距離感を詰めすぎるとどうなるかを身を持って体験する結果となってしまった。どっぷりと依存されるストレスは予想以上だったのだろう、関係性は悪くなり、激昂されたことも何度かあるし、「今すぐ娘を引き取りに来い」と深夜に実家に電話をかけられたこともあり、その電話を取ってしまった母は未だにそのことがトラウマなようだ。
もともとパートナーは他人の世話ができるタイプの人間ではない。わたしもそうだ。わたしもその後同じような経験をすることになるのだが、他人の役に立つ人間でありたい、他人に頼られる人間でありたいと思うばかりに、安易に他人を依存させるのはとても危険なことだ。
愛情が足りなかったのだろうと湯水のように愛情を注いでも、本人が自分自身を愛する気持ちを内側で育まなければ、自分を愛せない苦しさを人から愛されることですり替え心の穴を埋めようとし続けるだけになり、底のない器に水を貯めようとするのと同じことになってしまう。

結局パートナーはわたしから距離を取るようになり、深く依存しても良い状態から突然距離を置かれたわたしは、とてもとても苦しんだ。そのパートナーとはその後も長い付き合いになったが、最初にとことん依存してしまったことで、わたしの症状は悪い状態で固定されるようになってしまった。

そんな中、パートナーの前で自傷しようとして諍いになったことが主治医に報告され、自傷をやめるように医師から言われたが、やめると約束することはできない、とわたしはそれに答えてしまった。「じゃあ入院ですね」と医師は言い、確か翌日か翌々日には閉鎖病棟に入院することになったのだが、この辺りのやり取りは、なんというか、売り言葉に買い言葉のようだった記憶がある。
命に危険があるような状態ではなく、ひとまずパートナーから離し安定を図るために入院させられた感じだった。少なくとも、そのときパートナーはホッとしたはずだ。

わたしは「他の人とは違う人間でありたい」という気持ちが小さい頃から強かった。それは、「特別優秀でありたい」という願いであり、そして「異常でありたい」という欲望とも同義だった。
これはボーダーパーソナリティ障害によく見られる心のあり方のひとつだが、精神科の閉鎖病棟に入院するということは、わたしにとってはパンドラの箱を開けるような、好奇心を刺激するスリルある出来事だった。

当時は20代後半だったので、同じくらいの年頃の患者仲間と話したり、一緒に行動することが多かった。明るく面白い人柄だったり、大人しくて穏やかで、一緒にいて楽しいと思える人もいた。社会的入院で病棟で余生を過ごしている80代の女性もいた。

常に症状が激しく出ている人はあまりいなかったが、閉鎖病棟は状態の悪い罹患者が収容されているところだ。上記のような一見すると安定していてあまり問題のないような人たちが、突然豹変して怒鳴り出したり暴れたりすることがあり、わたしは不安定さにもいろんな種類があることを知った。
いつも穏やかな患者仲間の姿が見えないので、退院したのかと他の人に聞いたところ、衝動的に消火用バケツを非常口に投げて窓を割り、保護室に連れて行かれたという。
普段は楽しい人なのに、公衆電話で両親と話す時や医師との面談のときだけ激しく怒鳴り続ける人もいて、わたし自身の不安定さというのは、ただのワガママの範囲なんじゃないかと思えるほど、人それぞれ症状の激しさには幅があった。同じボーダーパーソナリティ障害と思われる人でも、自傷や問題行動のレベルが違いすぎた。

わたしが越えられない一線をとっくの昔に越えてしまった人たちの中にいるのは、最初は大変に思えたが、慣れてしまうと居心地が良かったように思う。「おかしいのが当たり前、誰からも責められることはない」、そんな安心感がそこにはあった。

これは栄養療法の記録なので、当時病院での食事を思い出してみよう。
閉鎖病棟では、食事は病棟内の部屋に配膳され、開放病棟は食堂まで出向いて食べていたと思う。
朝は食パン2枚にジャムやマーガリン、おかずが少々つく。もともと朝から食パン2枚も食べたことがないし、焼いていない食パンはあまり美味しくない。
3食炭水化物が必ずあり、白米とおかずが基本だった。ときどきけんちんうどんにどら焼きなどおやつがついていることがあり、いつもと違う食事を楽しみにしている人も多かった。しかし、やはり糖質が多すぎる。

開放病棟であれば、決められた時間内に近所のドラッグストアまで買い物に行くこともできるが、閉鎖病棟にはひたすら自由がない。
週に一回、病院の売店に行き、好きなおやつをひとつ買うことができるルーティンがあった。ぞろぞろと売店の前に並び、順番に買い物をする。コンビニが出店しているような大病院ではないので、売店の品物はとても限られていた。
入院している人たちが好んで選ぶのは、安くて個数がたくさん入っているお菓子だ。同室の人と分け合う姿は微笑ましいが、次にまた売店に行ける日まで、甘いものをキープしておかなければならない。
飲み物にも制限があるし、タバコを吸う人も本数が決められおり、ライターは盗まれないようにナース室に鎖で繋がれている。入院すればゆっくりと休めるのかと思いきや、閉鎖病棟はとにかく我慢する場所であり、病識が完全にない状態でなければ、むしろ具合が悪くなってしまうようなストレスフルなことばかりだった。

作業療法でのレクリエーションは唯一の娯楽だが、革細工や編み物、カラオケなど、調子が悪いときはそれを楽しむ気力が湧かない。わたしは当時はかなりの低血糖状態で、波はあるが常に頭を地面に押さえつけられているような気持ち悪さとだるさがあり、基本的には横になっているのが一番楽だった。しかし、入院中は食事や作業療法はスケジュール通りにこなさなければならないので、自分のペースで療養することはできない。食事の時間をスキップしてしまえば、後でお腹が空いても食べるものは何もない。

昼食の後はラジオ体操をし、看護師が選んだ音楽を2曲流し、歌詞カードを見ながらみんなで歌を歌った。そのときの選曲に島倉千代子の「人生いろいろ」があったのだが、「死んでしまおうなんて悩んだりしたわ」から始まるこの歌を、精神科の病棟で歌うのか…とびっくりしたのを覚えている。
しかし、みんな何も考えず歌っているので、「みんな強いなあ…」となんだか笑えてしまい、ネタ話となり今に至っている。

一生のうちに入院を経験する人は少なくないが、閉鎖病棟への入院はほとんどの人が経験することはないだろう。なので、その不自由さをリアルに想像するのは難しいかもしれない。
普段の自分から考えたら異常なまでの不自由を強いられているというのに、入院期間の最後の方ではわたしは完全に感覚が麻痺し、物事を深く考えることがなくなっていた。今日退院だよと看護師に告げられたときも全く現実感がなく、むしろこの生活が終わってしまうのが残念な気すらした。

病院の外に出ると、目の前を走る車のスピードがやたら速く感じてしまい、とても怖かった。タクシーで自分のアパートに戻ってみたら、これからは全部自分でやらなければいけないんだと感じ、独りが怖くなって号泣してしまった。
あんなに不自由な中にいたというのに。解放されて辛いと感じるとは思いもよらなかった。

不自由に慣れると、そこから抜け出られなくなる。慣れなければやっていけない場所なのでわたしは適応するしかなかったが、1ヶ月を超えて入院していたら、わたしはどうなっていたのだろうか。自宅に戻り1週間ほど経つと、自分の好きに過ごせる生活の方が当たり前になり、もう2度と入院はしたくないと思うようになった。
実際、2度目の入院まではかなり間が空いたが、これは1度目の入院とは性質が異なる謎の症状によるものだった。一昨年参加したメガビタミンのグループコンサルの際に、他の方の経験を聞きこの謎の症状の意味がわかりとても感動したので、次回はその2度目の入院について書きたいと思う。

入院の時期は大変なことがたくさんあったので、思い出して書くのに時間がかかってしまった。もうすぐ誕生日なので、その前に大変な時期のことを文字にしておきたい。
また少しずつ、過去を過去にしていこう。

Thank you for reading so far.

yama


#藤川理論 #藤川メソッド  
#藤川先生ありがとう

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