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謝罪は、「許されることが前提」なのか? 〜もしいじめっ子に謝られたらどうしたいか、考えてみた〜

この記事には、少しだけいじめに言及している箇所があります。同じような経験をお持ちの方、フラッシュバックの可能性をお持ちの方は、ご自身の体調と相談の上でお読みください。もし途中で具合が悪くなったら、無理せずブラウザバックをお願いします。

まれに家族と、というか母と、いじめを受けていた頃の話をすることがある。もちろんそういうのはお互いのコンディション的にOKで、なんとなくそんな雰囲気になった時に限るのだが、そうした流れの時、たいてい母は最後に「ごめんね」と謝る。

「ごめんね」は多分、「もっと早く気づけなくてごめんね」で、「もっと良い解決ができなくてごめんね」なのだと思う。母はその真面目な性格のせいなのか、自分に少なからず責任を感じている節がある。

でも、そういう時いつも思う。「どうして何も悪くない人が謝るんだろう」、と。

悪いのは、私を傷つけた人たちで、私を支えようとしたり、守ろうとしてくれた目の前のこの人じゃないのに。たとえ私を救おうとしたその手が一歩遅れたところで、それがこの人のせいなわけがないのに。どうして謝るのはこの人なんだろう。どうして謝るのは、あの人たちじゃないのだろう。

きっと本当に悪い人は、私に「ごめんね」なんて一生言うことはないのだろう。

・・・

もしも、加害者に謝られたら⋯⋯

これをいま読んでいるあなたにいじめられた経験があるかは分からない。が、とりあえず自分はいじめられたことがあると想像して、考えてみてほしい。あなたを散々笑い物にし、陰湿に追い詰め、傷つけて食い物にしてきた連中が、それから何年も経ったある日、急に現れて「あの頃はごめんね」と言ってきたところを。

それを見て、あなたがどう思うのかは分からないが、私が思うのはただひとつ。「よくも今さらのこのこ顔を出せたな!?」だ。

というか「あの頃」ってなんだ、「あの頃」って。終わった話をするみたいに言うんじゃねえ。

もし、何年も経ったあと、ではなく、当時だったらどうだろう。ある日、恐る恐る学校に行ってみたら、天地異変でも起きたのか、心を入れ替えたいじめっ子(と見てるだけだった共犯者)一同に、「自分がどれだけひどい事をしてきたか分かった。ごめんね、もう二度としない」と言われたとしたら。

私だったら多分、今思うとすごく腹が立つ気がしなくもないけれど、きっと許してしまうのだと思う。何故かというと、10歳かそこらの私医は、当時とても心が弱っていたので。もうひとつに、あの頃の私が望んでいたのはまさにそのような状況だったから。

私はいじめっ子を見返してやりたいとか、ライトノベルで時々見かけるなんだか物凄い復讐劇をしたいとか、そんな気持ちは少なくとも当時、全く無かった。ただ、いじめられなくなる日が来ることを願っていた。私もみんなみたいに、「普通」の学校生活が送りたかった。

だから、いじめられていたまさにその時、急に彼ら彼女らが誠心誠意自分たちの行いを反省して、心を入れ替えて謝ってきたのなら、私は許したと思う。それはもう、あっさりと「いいよ」と言ったに違いない。

でも、今は状況が違う。

自分で言うのもなんだが、もうあれから10年経っている。私にとっては未だに「終わっていない話」だが、彼らにとっては十二分に「終わった話」だ。その前提で「あの頃はごめんね」なんて言われても、許せる気がしない。

大体、今さら謝りに来るのはどうせ「もういいよ」とでも言われて、自分の中の罪悪感を軽くしたいだけなんだろう。それを抱えたまま生きるのは大変だもんな。でも、そんな「許されることが前提の謝罪」に意味なんてない。

謝られても、別に許さなくたっていい

最近になってよく「許すかどうか決めるのはあなた自身」という言葉を聞くようになったと思う。

でもそれまでは、「謝られたら許すのが当たり前」という教育を受けてきた人が多いのではないだろうか。

たとえば、二人の子供が喧嘩をしたとする。片方がもう一人の子を叩いて、叩かれた方は泣いた。誰かが先生を呼んでくる。呼ばれてきて、事の次第を知った先生は「謝りなさい」と叩いた子に言い、先生にそう言われた片方は謝り、「謝ったんだからもう許しなさい」と言われた叩かれた子が相手を許す。

こんな光景を、おそらくは大多数の人が見たことがあるのではないだろうか。主に幼稚園や小学校低学年あたりの出来事ではあるが、そこで子供が学ぶのは「悪いことをしたら謝る」ことだろうか?少なからずそれも学ぶだろう。だけど、この光景を見て子供が最も学ぶのは、「謝ったら許される」ということなのではないだろうか。

そして、謝ったのに許さないと、許さない方がなんだか悪いみたいな空気になる。そんな経験をしたことがある、もしくは見たことがある人もいるのではないかと思う。

でも、そもそもは「悪いことをしたと自覚し、そのことを反省したから謝る」のであって、そこには「謝ったら必ず許される」なんて決まりはない。許されようが許されまいが反省したなら謝るべきだし、許すか許さないかは謝られた当人が決めることだ。

それを外野が、「謝られたんだから許すべき」「許さないなんて心が狭い」だのとケチをつけることは、本来してはならないことだと私は思っている。

そもそも、「謝って欲しいか?」という話

謝っても態度をなんら変えないのであれば本末転倒なので、ここでは「心から行いを反省し、悔い改めた上での謝罪」に限定して考えたい。口先だけ、先生の前だから適当に謝っているのではなく、きちんと反省しているということを前提とした場合、さて、そもそも私は彼らに謝られたいのだろうか。

悩みに悩んだ末に出た答えは、NOだった。

そりゃ、反省してないよりは反省している方がマシである。でも、いじめられていた時に謝られるのと、それから何年も経ってから「あの頃はごめんね」なんて言われるのは全く違う。

私は、いま謝りに来られたらすごく嫌だ。

というか、そもそも会いたくない。

もう二度と私の人生に出てきて欲しくない。私もお前の人生に出演する気は1ミクロンたりともないので、どうかそっちもこれ以上出てくるな、と思っている。

引きこもっている間にこう思うに至ったが、私にも復讐してやりたいとか思った時期が全くないわけではない。でも、もう一応は過ぎたのだと思う。彼らのことを思い出すたびに相変わらず苦しいけれど、だからと言って過激な行動に走ったり、彼らのために刑務所で一生を過ごそうとは思えない。奴らにそれだけの価値がないことに気がつけたのは不幸中の幸いかもしれない。

なので、私は謝られたいかどうか以前に、そもそも彼らに会いたくないのである。考えてみれば当たり前だ。なんで好き好んで加害者に再会しなきゃならんのだ。例え相手が謝りたいと考えていたとしても、そんなの相手の都合である。なんなら、迷惑でもある。

もしも「今」、加害者に謝られたら私が伝えたいこと

最初の話では、今さら謝られても許せないと書いた。それの蛇足になってしまうけれど、謝られても許せないなら、何を伝えたいのか考えてみた時、浮かんだのは、「自分は許されないことをしたのだと、生涯覚えていて欲しい」ということだった。

上にも書いたけれど、罪悪感を軽くしにきただけの許される前提の謝罪ならば、自分が許されないことをしっかり頭に叩き込んで帰って欲しいのだ。

「あなたが私にしたことを、一生忘れるな」

これが、私が彼らに伝えたいことだ。

反省したなら、もう二度と繰り返さないで欲しい。目の前でいじめが起きていたら、それを止めて欲しい。もうこんな思いをする人が増えて欲しくないから。

でも、そうしたからといって自分のしたことが「帳消し」になるなんて、思って欲しくない。自分は許されないのだと罪を背負って生きて欲しい。そしてそんな自分に酔わずに、自分のしたことを真摯に受け止めて考えて欲しい。

その上で、もう二度と私の目の前には現れないで欲しい。生きている間も、たとえ私が死んだ後だって、もう二度と会いたくないから。

・・・

これは、あくまでも「私」が「私をいじめた人たち」に伝えたいことだ。きっとこの「伝えたいこと」は、人によって違うのだと思う。同じ経験をしたから同じ感じ方をするわけじゃない。反省した姿を見て、憎しみをおろせる人もいるだろう。謝られて、少し気持ちが軽くなる人だってきっといるはず。

私は彼らを許せない。忘れたいと思いながらも、一生許さないと思うことがやめられない。でもだからと言って、許せる人のことを否定したくはない。許すのも許さないのも、決めるのはされた当人が決めることだから。

ただ、「謝られたら許さなくてはいけない」とは思わないでほしい。あなたには許す権利も、許さない権利もあるのだから。

そして謝る側にも、それは知っておいて欲しい。許すかどうかを決めるのは謝った側ではなく、謝られる側なのだと。

もし、許されるから謝っているのなら、謝罪の意味がなくなる。許されないかもしれない。それでもひどいことをしたから、謝る。そういう謝罪であって欲しいと、私は思う。

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