【数多の挫折。掴んだ感覚】シンガポール国立大学(NUS)留学記5
洋楽が好きだった。今学期の授業が終わり、気分転換として一人旅に行くことに決めた。フライトの途中思うように寝付けず、自分のプレイリストを垂れ流し、目をつむって聞いていた。流れてきたのはTaylor Swiftの「We are never ever getting back together」。中学生時代から耳にしたことがあり、留学する以前も、友達と一緒に車の中で歌ったのを覚えている。いつもと同じサウンド、同じ歌詞だった。しかしながら、見えてくる景色が違った。頭の中で、主人公が強がっているような、悲しんでいるような光景が浮かぶ。
その瞬間、留学に来て本当によかったと、心から感じた。
言語を勉強していつも感じるのは、私たちは言葉で世界を分節しているのではないか、ということ。日本語だって同じ。より多くの語彙、表現で世界を知覚し、表現することができれば、世界はもっときれいに見えるのではないか?もっと色んなことを考えられるのではないか?
古典ともいうべき、夏目漱石や芥川龍之介などの小説に一種の憧れを抱くのも、これが原因なのかもしれない。今回の話は、留学を通じて感じた、そーゆー話。
留学初日、帰りたいなと感じたことは今でも鮮明に覚えている。私にとっての留学は、初めての海外旅行のようなものだった。生きてきて約20年、海外は一度も行ったことはなく、国内ですら、あまり遠くに旅行する人間ではなかった。すべて無難で、失敗することはあまりなかった。留学に行く一つの大きな目的として、挫折を感じること、という生意気なテーマを志望理由書に書いた。海外に行けば、自分の人生観を変化できるのではないか。そう考えた。結果としては大成功なのだが、そのテーマをもってしても、留学初日に感じたショックは、私の決意をほとんど折っていた。チャンギ空港に到着した午後3時。まず感じたのは、人の冷たさ。(正確には冷たさではないのだが)日本で慣れていた、「空港職員の方々は礼儀正しく、親切だ」という先入観は、到着して5分程度で崩れた。尋ねてもスマホをいじりながら不機嫌に答えられ、こんなところで1年間やっていけるかな、という不安が頭をよぎった。まあこんなものは今考えるとなんでもないんだけど。
電車に揺られ、バスに揺られ、午後6時ごろに寮についた。出迎えてくれた先輩たちはとても優しかった。部屋につくと、その二人が一言。「今から濡れるけど大丈夫?」どうやらオリエンテーションキャンプに誘ってくれているみたい。まあそんなに濡れないだろう、と軽い気持ちで参加した。
オリエンテーションキャンプのことは、正直あまり覚えていない。恐ろしく濡れたということと、恐ろしく英語が聞こえなかったということだけを鮮明に覚えている。シャワーを浴びながら、とんでもない場所に来たなと感じた。キャンプの途中に色んな人が話しかけてくれたが、みんな数分喋ると他の人の場所へ行ってしまう。そりゃそうだ。自分の立場で考えても、面白いことも言えず、ましては会話すらまともに成立しない人と話したいなんて思わないだろう。留学して初日の自分は、会話を続ける能力も、最低限相手の話を聞ける能力も備わっていなかった。この日一番喋った言葉は間違いなく「Sorry?」だっただろう。
荷ほどきも十分に終わっていない中、ほぼ唯一の家具であるマットレスの上から天井を眺めて、帰りたいと思った。
人は慣れる生き物であり、1週間もすると、帰りたいという思いは次第に弱くなった。相変わらず英語はほぼ聞こえていないし、会話を続ける能力もなかった。ただぼんやりと、「継続すればなんとかなるかもな」と思った。シンガポールでの生活にも少しは慣れ、生活レベルが日本からかなり落ちたことも、あまり気にならなくなった。この頃は、割とポジティブだった。
ちょっと変な話ではあるが、意外と授業は楽しみだった。せっかくの機会だし、難しそうな授業も頑張って色々発言しよう。そう思っていた。全国の大学生が履修期間に起こる現象と、多分同じだったかもしれない。
授業が始まって2週間程度までは、よかった。恐ろしく多い課題の量に困惑しつつも、なんとかこなしていた。問題は、3週間目からであった。
NUSの授業では、Tutorialという制度が、ほぼ全ての授業に組み込まれている。簡単に言えば、話し合いがメインの授業だ。これが私の決意を、再び折った。日常会話が聞き取れない人間に、難しいトピックが聞き取れるわけがなかった。また、それが聞き取れない人間に、それについての意見が持てるわけもなかった。情景が浮かんでこない。だから、それに対し何も言えなかった。その結果は、ただの相槌マシーン。ニコニコ笑ってその場をなんとかやり過ごす。虚しかった。正直な話日本では、ディスカッションに困ったことはなかった。発言を何もしない人に対し、何か言えばいいのにな、とさえも思っていた。自分が同じ立場になって、ようやく理解できた気がする。内容が分からないことに対しては、発言しようがないのだ。毎回授業には出席するが、別に自分がいてもいなくても何も変わらないよな、と思いながら授業を受けていた。
授業に悩んでいた同じ時期、もう一つの問題が浮上した。それはいつまでたっても現地の学生とあまり仲良くなれないということ。一緒にご飯を食べ、一応会話には参加しているものの、キャッチボールがうまくできず、結果として別にいなくてもいい存在に。これは私がネガティブすぎるからそのように感じているのではなく、事実だと思う。だって自分にしろ、自分でないにしろ、日本で”そういう人”には思い当たりがあったし、そういう人の行動はそうだったから。周りの交換留学生は、交換留学生同士でコミュニティができているし、今更新しい友達を作るのも難しい。「キョロ充」という言葉は好きではないが、あの頃の自分を形容するには、それが一番適切なものかもしれない。とにかく明らかにコミュニティに所属できていなかったのだ。これは妄想や空想ではなく、事実として。
変化を感じたのは、10月上旬頃だった。明らかに、みんなからの態度が少し変わったのを感じている。私の中では、友達というのは4段階あると思っていて、恐らくみんなにとって、1番下の段階から、1つ上の段階にレベルアップしたのだろう。その最大の違いは、会ったときに相手が笑顔になるか。これは多くの人が共感してくれると思うが、会いたくない、もしくは別にどうでもいい人と会ったとき、笑みがこぼれることはないだろう。作り出すことはできるかもしれないが、それは意外と簡単に気づかれる。まあいわゆる愛想笑いと呼ばれるものだ。10月の時期になると、みんなと会ったときに、自然にお互いが笑顔になったり、軽い話をすることが増えた。
では何がその変化を引き起こしたのか?明らかな、そして最大の原因は、言語能力の向上である。留学して2か月もたてば、さすがにリスニングも、スピーキングも少しはましになった。聞き返すことも少なくなったし、簡単なことなら英語で、詰まりながらも説明できるようになった。またそれにより、最初の頃よりは堂々と、コミュニケーションがとれるようになった。言語能力の向上によって、私の、英語というレンズを通して見える世界が、視力0.3くらいには成長した。もちろん他の要因もあるだろう。だけど最大の要因は間違いなく言語能力である。間違いなく。
授業に対する変化は、それよりも少し遅れてやってきた。多分11月くらいだったかなあ。質問できる回数や、自分の意見を述べられる回数が増えた。これももちろん原因は明らかで、言語能力の向上→「英語を話すこと」に対して脳に要求されるリソースの低下→学問的な、難しい内容について思考できる余裕の発生 というプロセスだと思う。日常会話の向上と少しタイムラグがあったのは、視力0.4くらいの能力が必要とされていたからだと思う。
それでも現地の学生とは明らかに思考レベルに差があるし、他の交換留学生とも差はあると思う。それでも今まで何も太刀打ちできなかったことに対し、少し立ち向かえた気がした。確かな感覚をつかんだ気がした。それが素直に、嬉しかった。
主観的に見て、私の今の視力は0.5くらいだと思う。具体的には、海外旅行には困らず、コミュニケーションもとれるが、一生の友達を作れるかといえば、難しい状態。別の言葉でいえば、日常生活には困らないというレベル。これから先、その視力がどうなっていくか分からない。私の計画では0.8くらいには持っていきたい所だが、恐らく次のセメスターでも、数々の挫折を経験し、嫌になるだろう。もうここから先は、普通に生活していれば伸びることはない。自分で考え、自分で英語を使う機会を増やさないと、「日常生活レベル」から抜け出すことはできないだろう。
大学受験時代、様々な問題集を解いていた中で、「後悔」という言葉について論じていた文章に出会った。”後悔とは「そうしないこともできたはずだ」という信念である” 簡単に説明するとそういう文だったのだが、これが強く私の印象に残っている。正直に言って、私は人よりも効率が悪いし、不器用である。「そうしないこともできたはずだ」という場面に出くわしたことは、数えきれないほどある。私は自分の中で「後悔したことリスト」というものを作っているのだが、約2年間でその数は60を超えた。いつも後悔しまくりである。しかしながら、それが完全に無駄なことだとは思っておらず、それらも含めて自分だなと今は思えているし、浅い言葉でいえば、経験だなと思っている。それが自分の人生という物語において、変化や新たなイベントを引き起こしてくれたファクターだと、ほとんどの後悔については考えることができている。
「終わり良ければ総て良し」ということわざがあるように、最終的な結果が良ければ、そこまでの苦労は全てその結果につながるプロセスのように思え、「そうしてよかった」と感じられるだろう。結局のところ、最終的な結果が大事なのではないか、と私は考えている。ただし、結果を変えるためには、行動を変えていかなければならない。習慣を変えていかなければならない。少しずつ、少しずつ、より良い方向へと自分の行動を変えていきたい。私の物語における明らかな区切りは、留学終了時であろう。その最終的な場面に至ったときに、何を思うか。それを常に考えていきたい。
一人旅を終えて、今は深夜の空港で、シンガポールへの便を待っている。私たちは言語によって世界を分節している。これは疑いようのない事実であると考える。この4か月間で、明らかに、シンガポールという世界、外国という世界が、クリアになった。私がここに居場所や愛着のようなものを、少しではあるが感じ取ることができている。もっとこの世界をきちんと知覚したい。そういう思いは、これからも消えることはないだろう。この正の方向へ向いている思いを、どれだけ持ち続けられるか。そしてそれに伴う行動をどれだけ起こせるか。それは来年の自分次第なんだろうけど。
ありがとうセメスター1。ここで味わった挫折も、苦しみも、辛さも、温かみも、変化も、自信も。今後の人生において、忘れることはないだろう。
ただ今は、こうして言葉で遊べていることへの感謝を。
今回の文章は記録のような吐露のような、そんな感じです。
10年後これを振り返って、クスって笑えたら、それが一番いいですね。
次回からはいつも通りの記事です!これでセメスター1に関しては終わり!
それでは!