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私が堕ちる所まで堕ちた話#1


本文は多少の脚色をした精神疾患に関するエッセイです。激しい描写が多いので苦手な方はブラウザバックしてください。


はじまり

 貧乏な家庭で公立校しか許されなかった私は、少しランクを落とした公立高校を受験し、入学した。
 1年次は軽音部に入り楽器を覚え、メイクも覚え、テストでも平均点ちょっと上くらいを取りながら高校生活を謳歌していた。この後の地獄も知らずに。

 2年次になり少ししてから体に不調が現れるようになった。幾度となく気絶を繰り返し5歩いては倒れるようになり、高熱が出る回数も増えていった。

 周りの友達は最初こそ心配して声をかけてきてくれていたものの、直に見て見ぬふりをされるようになった。そりゃあ廊下や教室で全身を打ち付けぶっ倒れる"元"友達の様子はさぞかし怖かったであろう。関わりたくなかったであろう。面倒だったであろう。所謂、腫れ物扱いというものをされていたのだ。
 教師もそうだ。私が階段で気絶し痙攣しながら転がり落ちていく様を少し離れたところで見ながらニコニコしていたおじいちゃん先生の顔は今でも忘れられない。

堕ち始め

 精神的にも影響が出始めるのは時間の問題だった。周りの目に対する羞恥、見て見ぬふりする人々に対する憎しみ、迷惑をかけお荷物になっていることに対する罪悪感、どうしようもなくしんどい体。私は、小学生の時に少しだけやってすぐ辞めたリストカットとodに再度手を出し、そして沼に落ちていった。

 10m歩くのに5分かかるような体になってしまった私は、朝遅刻して教室に入るのが当たり前になっていた。ある時、「もういいや」と思って教室に向かわずそのまま多目的トイレに入りそして腕をズタズタにして、止血してから教室に向かった。少し楽になったような気がした。
 それからというもの、情状酌量で許されている遅刻に甘んじて毎日、来る日も来る日も腕を切ってから教室に入るようになった。私の中で、"当たり前"と化していた。
 odも当たり前だった。毎日何かしらの市販薬をodしてから学校に向かっていた。学校に着く頃にはパッキパキである。それを水筒に入れた酒でさらに増長させて毎日を乗り切っていた。休み時間に水筒からお茶を飲むふりをしては、バーボンをジュースで割った自作カクテルを飲んでいたのだ。
 次第に授業中やテスト中にも腕を切るようになった。小さく折ったカッターの刃を手首に押し当て、ポケットのティッシュで止血した。何度かやっているうちにバレて保健室に連れていかれて説教された。テスト中にパキり過ぎて怪文を書いたこともあった。アカシジアに耐えていた記憶しかないのだが、実際はガタガタの支離滅裂な言語を解答用紙に書いていた。ちなみに問題用紙の裏側には自分の名前の漢字を必死に思い出そうとして何度も練習した跡があった。なんにも覚えちゃいないけど。
 保健室の先生に「○○ちゃんさっき変なこと言ってたよ」と言われ焦った記憶もある。私はその時急に「そういえば、この後ラジオの撮影があるんですよ」と言っていたそうだ。パキり過ぎて入る教室を間違えたこともあった。1度目に間違えた教室は1年次に仲良くしてくれていた友達がいて笑い飛ばしてくれたので良かったものの、次こそ自分の組に行かなければと思い入った教室は静まり返ってしまって本当にキツかった。

 次第に、毎日高熱が出るようになった。昼休みに毎回保健室に寝に行くのだが、その時熱を計られる。38.5℃前後の熱が毎日のように出て早退し、4時間目以降の授業に出れないようになった。

何もかも救われない

 ある日保健室の先生がスクールカウンセラーを提案してくれた。少しだけ期待した私が馬鹿だった。
 話していても何にもならない。私の羞恥は、憎しみは、罪悪感は、しんどい体は、辛さは、悲しさは、苦しさは、救われやしなかった。
 状況が好転しないのを見て保健室の先生が次に提案したのは"精神科"だった。

縋る思い

 保健室の先生に言われたから、と親に精神科に行きたいと言った。もう楽になれたら何でも良かった。


#2に続く

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