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平成最後の朝、または幸福な朝。

羽海野チカ著、『3月のライオン』の中に、こんなシーンがある(と前置きする必要もないくらい、この作品は多くの人たちに読まれているのだけれども)。

前日、いろいろあって疲れ切った零(主人公)は、川本三姉妹(ヒロイン姉妹)の家で、倒れるように眠り込んでしまう。
目覚めた場所は、布団の上。
零は姉妹たちに挟まれ、川の字に寝転びながら、「にちようび」の朝を迎えていたのだ。

年頃の娘たちのなかで、異性扱いもされずにぐぅぐぅと眠ってしまったこと(下着姿で)を恥ずかしく思いながらも、彼はこの完璧な朝――眩しい日差し、大好きな人たち、ゆるやかに流れる時間――を、こう表現する。

ここはまるで…
ずっと昔の にちようびみたいだ

――にぎやかなのに 静かで
白くて まぶしくて
多幸感で どうにかなりそうだった
(『3月のライオン』11巻)

そうして、今はもういない家族との朝を回想する。


***

「幸福」と聞いて思い浮かべるのは、幼いころの休日の朝の光景だ。

日曜日。朝のテレビ番組を見るために、私と弟はベッドを抜け出して、リビングに向かう。夏は、冷蔵庫の麦茶を飲みながら。冬は、寝室から持ち出してきた毛布にくるまりながら。

お目当ての番組が終わると、もう一度二人で寝室へ戻り、両親の眠るベッドへと突撃する。出窓から入る朝日がまぶしくて暖かい。父と母の温もりがどこまでも優しく、ホッとさせてくれる。

もう少しごろごろしたら、さて朝ごはんを食べようと、誰からともなく布団を抜け出していく。それは一日の始まりでありながら、なんとなく寂しくて、ちょっと切ない。

冒頭に挙げたシーンが印象に残っているのは、零くんが感じる幸福と、その裏で覚える悲しみと懐かしさが、私があの頃味わった気持ちとシンクロしているからなのだろう。

***

昭和の終わりに生まれた私は、平成の記憶しか持たずにここまで生きてきた。

両親と過ごす満ち足りた幼少期から始まり、息子の誕生という「次世代」を象徴するような出来事に終わる。「平成」の終焉をもって、私は私の「子ども時代」から卒業するのかもしれない。


今日、平成最後の朝。

私と夫は二人して盛大に二度寝をしてしまい、昼近い時間に目を覚ました。布団に入ったまま、枕元にしかれたベビー布団を見ると、そこでは親と同じくねぼすけ気味の息子が、薄目を開けて私たち両親を見つめていた。

まだ視界不明瞭であるはずの彼は、それでも私たちと目が合うと、薄目のままニヘッと笑みを浮かべた。

その顔がどうにもかわいくて愛おしくて、私たちもつられてほほえむ。

それは限りなく、あの頃の幸福な朝に似た朝だった。

(息子が青春時代を過ごす令和が、幸せな時代になりますように。)

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砂東真実
サポートをご検討いただきありがとうございます! 主に息子のミルク代になります……笑。