先生とは先を生きる人

僕は今まで日本語教師であったり、保育士であったり、今は療育士として働いていますが、その度に「先生」と呼ばれる立場にどこか違和感を感じながらも生活しています。でも僕にももちろん「先生」と呼べる人はたくさんいて、いろんな学びをさせてもらってます。
その中で先生の役割はなんだろうかと考えてみました。

「先生とは先を生きる人」

先生って読んで字のごとく「先に生まれる人」であって偉くも何もない、というのが僕の考えでした。だから先生と呼ばれて喜んでいるような人とか嫌だったし、自分が先生に対して敬意の念を抱くとかは「良い子ちゃんぶってる」ような気がして嫌でした。

その中である人から言われました。
「先生って先を生きる人なんだよね。もちろん先に生まれているから接する人に対しての経験値が多い。だからこそ失敗も成功も価値になる。失敗した経験は『僕は○○して失敗したよ。でもこれを通じてこうやって成長できた』。成功した経験は『僕は○○して成功したよ。だからあなたもこうすれば成功できるかもしれない』。と伝えられる。先を生きていて背中で物事を語る人。それが先生なんじゃないかな。」

失敗も成功も価値になるというのがこの時はっきりとわかりました。
何よりも多くのことを経験している人が「先生」なんだと。
だから子どもにとって学校の先生が一人(担任制)というのは非常に危ないなと思うのです。その先生個人の経験談が子どもに伝わるので、いろんな大人の背中を見ることで子どもは「何を選択していくか」というのを学びます。もちろん担任が固定されることで人との信頼関係を築いていくための学びもできるし、「この先生には何でも話せる」みたいな心の拠り所のような存在になることもあります。でも僕は子どもの時こそいろんな世界や人を見るほうが大切だと思うのです。

この意味で誰もが先生であるなと思ったのです。生物である以上、種の保存を求めるというのは自明なことです。年とともに経験値を増やす、そんな「先を生きるステキな人」たちが増える社会になると学校の機能も変わってくるかなと思います。

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