91年目のSay hey
1,ウィリー・メイズ91歳の誕生日
現地時間の5月6日。
ウィリー・メイズ91歳の誕生日が来たと聞いて驚いている。
もうニューヨーク・ジャイアンツなんていう球団も半世紀前。それも戦後間もない時期の選手だ。それこそ私のような野球史オタクは「the catch」だの「MLB史上最高の外野手」だの言ってキャッキャ言っているが、今の野球ファンにピンと来ている人間もほとんどいないだろう。
考えてみたら金田正一と同じくらいの選手だ。1952年から一年朝鮮戦争に出ているし、かの有名な「the catch」だってもう半世紀以上だ。学校で言えば歴史の教科書に載っているような人物で知っている人間なんてまさに野球好きか、私のような過去の偉人を聴いて喜ぶ人くらいしかいないだろう。
せいぜい「バリー・ボンズの命名者」くらいが関の山ではなかろうか。
しかし改めてそんな選手が91歳にもなってご存命というのは素晴らしいというよりはすさまじい。MLB史上最高の外野手と呼ばれ、終生その存在感を争い続けたハンク”ハンマリン”アーロンがコロナでの合併症で死去してしまったことを考えてもその丈夫さに驚かされる。
こういうセリフを言うのは嫌いではあるが、それを差し引いても生物学的な意味での「ヒト」としての強さを思い知らされる気分だ。90を過ぎても生きられるほど心身ともに強い男だからこそ未だにご存命というか。いやはや見習いたいものである。
年度別打撃成績を見ても素晴らしいの一言だが、一つ引っかかる事もある。
晩年彼はサンフランシスコに移転したジャイアンツを出ていき、1972年から1973年の間までニューヨークメッツに戻っている。5月12日のトレードであるからジャイアンツでも19試合ほど出場している。
段々と成績が落ちてはいるものの、全く役に立たないわけではないタイミングでなぜ彼はメッツに移籍したのだろうか。
2,ホイットニー家の長女、ジョーン・ホイットニー・ペイソン
日本のwikipediaには50000ドルの金銭トレードでメッツにやってきた、としか書かれていないため、ジャイアンツのロートルをお払い箱にされた、という印象を受けるかもしれない。
しかし、事情はそれだけでもないようだ。
アメリカの名士一家にしてニューヨークメッツのオーナーの一人であったホイットニー家の長女、ジョーン・ホイットニー・ペイソンの存在が大きいようだ。
彼女の英語版wikipedia概要にはメッツの成り立ちについても触れている。
1957年のニューヨークジャイアンツ移転に関して彼女夫妻は反対の立場を取っていた、という記述がある。
ブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーの提案にジャイアンツのオーナー、ホーレス・C・ストーンハムが乗ってしまったがゆえに起きた悲劇だろう。今はどうかは知らないにせよ、古きブルックリン住民にはオマリーが悪の帝王と呼ばれていたらしい。
それほど唐突なものであり、ジョアン・ペイソン達にとっても賛成しがたいものであったのだろう。
実際問題ニューヨーク市側はドジャースが新しい球場を作る土地にブラッシング・メドウズを提案し、現在そこにメッツの本拠地であったシェイスタジアムが建設された事を考えても、ドジャースやジャイアンツがニューヨークを離れる事に対して賛否が投げ交わされていた事が見え得るし、ニューヨーク市側もドジャースを手放す気はなかったのだろう。
結果、西海岸での利益を優先したオマリーとストーンハムの二人によってそれは木っ端みじんにされているのだが。
今でこそ西海岸にMLBの花を咲かせたと評価されているドジャースとジャイアンツの西海岸移転であるが、少なくともニューヨークにとっては悲劇以上の何物でもなかったという。
結果1962年のエクスパンション時にヤンキース以外を失ったニューヨークにメトロポリタンを意図してつけられた球団ニューヨーク・メッツが生まれ、その当時ジャイアンツ移転に反対したペイソンやドナルド・グラントらがオーナーになっている。
そういう意味ではニューヨーク・メッツという球団はニューヨーク・ジャイアンツというニューヨーク市が誇る球団を失った悲劇から生み出されたチームであることに気付かされる。
3,1972年、メッツ移籍
ペイソンにとっての悲願はジャイアンツがニューヨークにいた頃の象徴たるウィリー・メイズを取り戻す事であった。
メイズも70年より段々と精彩を欠き始めてはいたものの、それでも71年の成績は打率.271、本塁打18本、61打点、23盗塁に114四球という気の抜けないベテランとしてその存在があった。
雇う事自体はジャイアンツにも可能であっただろう。
しかしメイズとジャイアンツは2年33万ドルでの契約を交わしており、さすがにそれほどの予算を賭けられるほどの選手でもなくなりつつあった。
レジェンドとは言えsay hey kidの時代ははるか遠く。72年には打率.184と衰えを隠せずにいた。
そこにペイソンは働きかけ、5万ドルとメッツから出てきた投手、チャーリー・ウィリアムズとトレード。23歳にして9先発5勝6敗完投数1の若手を放出してでも得た事を考えると、ペイソンのメイズを手に入れる気持ちは強かったのだろう。
チャーリー・ウィリアムズも移籍後1978年まで中継ぎを中心に237試合登板(通算登板数268試合)、483イニング(通算573.1イニング)を投げているから彼の人生も悪いものではなかっただろう。
そんな選手を放出してまでペイソンはメイズにこだわったのだ。
ペイソンこの時69歳。メッツの監督は71年まで在籍したギル・ホッジスに変わり、72年から指揮を執るのはヤンキースの名捕手であったヨギ・ベラ。
エースにして通算311勝の名投手トム”テラフィック”シーバー、通算222勝投手のジェリー・クーズマン、通算125勝のジョン・マットラックを中心とした投手王国を展開。三人で44試合完投する事でメッツリーグ制覇までこぎつける。
42歳のメイズも66試合出場。35試合は先発出場するなど脇を固める活躍をしている。209打数44安打の打率.211には衰えを感じずにはいられないが、打点その打数で25打点は流石というか。
そしてシーズン終了後に引退。
衰えを見せながらも最後までメイズは史上最高の外野手のまま去っていった。
この翌年メッツは5位に転落。
そして1975年10月にオーナーであったペイソンは72年の生涯を閉じる。
こうしてミラクルメッツから続く、ニューヨークの新しい球団は新たな局面に切り替わっていく事になる。
4、remember"SAY HEY"
ジャイアンツの英雄はニューヨークを愛する人たちによってもう一度メッツの看板を背負ってニューヨークの英雄として戻ってきた。
そして現在もニューヨークの英雄として91年目の人生を続けている。
彼はいつ代名詞となる「say hey」と呼ばれたのだろうか。
それは意外な事に朝鮮戦争後にジャイアンツ復帰した1954年のタイミングで作られた。
広報のテッド・ワーナーが彼の口癖「Say who,Say what, Say where, Say hey」から彼を題材にしたテーマソングを作成。まさにニューヨークで彼の現在が作られはじめたと言っていい。(参考・日本プロ野球OB会 07.野球の唄、20回、セイ・ヘイ/島田健)
そしてその年に彼は英雄となる。
1954年と言えばあの「The catch」があった年だったからある。
1954年、ニグロリーグと朝鮮戦争を経験した一人の野球選手を英雄としてニューヨークが掬い上げた年でもあった。
それはMLBの名黒人選手ではなく、栄光あるニューヨークジャイアンツの英雄として彼がニューヨークに迎え入れられた瞬間でもあった。
彼はニューヨークの英雄だったのだ。
1972年、73年はジョーン・ペイソンらが英雄を取り戻そうとしたラストタイミングであったのだろう。
彼を「ジャイアンツ」の英雄として終わらせるのではなく「ニューヨークの英雄」として有終の美を飾らせたい。そして実際73年はその通りになった。
この後にペイソンがなくなった事を考えると彼女にとって最後のわがままであっただろうし、そのわがままはニューヨークにとって誰もが一度は思い出したい英雄への憧れにも似た夢であった。
だから、say hey kidはまたニューヨークに戻ってきたのだろう。
そう思える。
そんな彼も91歳。比較され続けたハンマリン・ハンクはコロナに犯されこの世を去った。同じく73歳の、優勝を共にしたテラフィック・トムもまたコロナによってなくなった。
彼らが消えゆく中で、未だにsay hey kidは今日も生き続けいている。
それは史上最高の外野手として、そしてなによりニューヨークの英雄として。
そんな彼を、少しだけ思い出してほしい。