
野球文化學會 第8回研究大会 所感
今年も、行ってきた。
今までと違い東海から行くのでそこそこ大変ではあったものの改めて今年も法政大学のキャンパスを踏むに至った。
野球文化學會は面白い学会だ。今の野球界ではどうしたらボールを速く投げられるか、どうすればプレーが上手くなるか、といったところに焦点を当てられがちだが現在に至るまで残された多くの情報や資料をまとめたりするような学会は正直に言ってない。
日本にはsabr(セイバー、アメリカ野球学会のこと。セイバーメトリクスのセイバーはここが由来)のような、文化的、社会的側面から野球を捉える学会としては唯一といっても差し支えないだろう。
私もなんだかんだ何度も足を運ぶようになった。
四回目だったか、五回目だったか。もう覚えていない。zoomでの参加などもあったからとりあえずそこそこ参加している、という形でいいだろう。
毎年多くの知見を得ているので年唯一の楽しみとなっているのは正直だ。
今年も多くの話題が出た。
石村広明氏(東京都立産業技術高等専門学校品川キャンパス)がドライブラインなどのプライオボールを使ったトレーニング検証には興味を持った。それこそ2010年代後半にプライオボールを使ってトレーニングをすることが一時SNSなどで話題になった。それで多くが「速球が強く投げられる」などの言説が出回っていた。
その時はいつも「稲尾和久の鉄球投げと何が変わらないのか」「その稲尾和久も速球のためではなく壊した肩を『重い球をいつも通りに投げれたら野球ボールでも同じように投げられる』という思想のもと始めた、強引なもの」というイメージで見ていたために懐疑的だった。
実際練習の効果はあまり明確に出てはおらず、あくまで「けが防止のためのもの」であり、様々なトレーニングにおいて「負荷をかけながらボールを投げる動作を身体に覚えさせていく」もので、検証に参加した選手からも「投げやすくなった」「力の入れ方が今までより捉えやすくなった」というものだった。
こういった検証は昨今の情報が混濁するネットなどでどんどん広められてほしいものだ。
狩野美知夫氏 (八川社代表)の「野球という言葉が中馬庚が名付けたと言われるまでどういう経緯をたどったか」というのはどうしても「野球という名前を付けたのは正岡子規ではなく中馬庚」という落としどころでまとめがちな我々にとって新鮮であった。
狩野氏は正岡子規が「野球(のぼーる)」と雅号を名乗ってから四年後に中馬庚がベースボールを野球と名乗ったことに注目し、旧制一高の中で野球の翻訳を行う中でサロンが生まれ、そこで呼ばれていたものが翻訳として呼び出され、野球という単語がbaseballとして定着していくまで多くの書籍が関わったことをまとめていた。
今でこそ私も「この当時にこの言葉が生まれたとして、果たしてどれだけの年月を以てそれが普及したのであろうか」という疑問を持ったものだが、それを丁寧にまとめられたことには驚きを覚えた。我々国文学にも研究史というのはあるが、これが野球という点になると案外きちんと整理されていないことに気付かされる。
特に私も萬葉集を研究していたから、例えば額田王が日本書紀の天武紀にその名を見出し(これも歌人と同一のものか争いがある)、それこそ正岡子規や彼を次いだアララギ派の流れを継承する伊藤左千夫などに引き継がれつつも東京大学の谷馨によって「巫女」としての性質を指摘され、現在でもその多くがそれに従うものの、筑波大の伊藤博によって巫女としての性質を省き、その人々の感情を天皇に成り代わり歌として伝えた「御言持歌人」としての性質を持つ、という結論も出ている。(筆者は後者支持)。額田王がどういう性質を持った歌人であったか、というだけで多くの人物が名を出す。
と、このように一書生でも研究史というのは大方説明が出来る。細かくはなくてもあらすじくらいは話せるのだ。
これが野球となるとイマイチピンとこない。多くの事象がどこから出て、現在どうなっているかを説明できることは多くない。そういう意味でもこういった研究史を行う価値を改めて示されたものだと思う。
また、これを編纂することで「正岡子規を野球を文化として歌に読み込んだ初めての男」と改めて出せる事を狩野氏は主張していたが、それは萬葉集研究を行っていた私にとってもなかなか面白そうな議題である。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」が今まで古今集を称えた歌壇から万葉派という新たな価値観を提示し、それが多くの議論を呼んだ。また、旧制一高の野球サロン的文化はそれこそ大河ドラマ「光る君」であったような平安時代の中宮定子についた清少納言や中宮彰子についた紫式部がいたサロン文化的な、当時のインテリジェンス層を巻き込んだ野球文化層の礎を読み取る可能性も十分に示唆できる。
そういった新たなブレイクスルーが生まれる可能性は十分にあった。
今回全くといっていいほどの異端な存在は鈴木昌樹氏(フリーライター)の北朝鮮の野球だ。
北朝鮮といえば我々の世代だとワールドチームと言われたらまず「サッカー」が思い浮かぶ。赤い稲妻という名前と共に世界と戦っていた事は記憶にある人も多いだろう。
しかしこれが野球となると全くと言っていいほど未開の地であり、多くがどういうものか話すことすらできない。鈴木氏はそれを自身の取材などをもとに「北朝鮮にとって野球はどういう存在か」という所に迫っている。
行われているかの是非はとにかくにせよ、文献から野球というものがどういうものかを知る層は少なからずいるのではないか、というところで現状は結論づけている。今後も研究を続けると全く違ったものが見えてくる可能性を示唆していた。
WBCなどによって国際野球の存在が本格的に大きくなりつつある現在。数少ない資料から不明の野球を語られていたのは非常に興味深いものであった。また1980年のモスクワオリンピックも触れられており、1980年代野球がオリンピックの公開競技となっていく中で社会主義国が生み出した要素も少なからずあるのではないか、と考察もされていた。
確かにロシアのモスクワ大には東海大の重鎮、松前重義が作った松前スタジアムがあれば、今日本を沸かせているチェコも元は共産主義圏の国だ。キューバ含め彼らが野球を行うために足並みをそろえているのはなかなか趣深い。
オリンピックを合言葉に社会主義国家がどう野球を扱っており、現在もその血を残す北朝鮮や、その背後にいる中国などはどう野球と関わっていくのか、は今後も追ってみたい議題だ。
井上裕太氏(弘前学院大学・講師)は野球文化學會も注目している「地方と野球」という観点から青森で初めて野球を行った学校についての考証であった。
今までは東奥義塾がその先達と考えられていたが、それ以外にも「青森で初めて野球を行った」という証言が残っており、それを精査するものであった。これがなかなか面白く、残されたものに「青森で初めて野球を行った」の青森が「青森県」なのか県庁所在地の「青森市」であったのか、というところから多少ブレがあったことを指摘したり、青森で初めて行った東奥義塾の野球が果たしてどれだけの影響のものであったのか、というところまで掘り進められていた。
「初めて野球を行った」
考えてみればなかなか難しい言葉である。この初めてをどこに添えるかで大分意味が変わる。試合形式を初めて行ったものなのか、県内での対外戦でのものなのか、言ってしまえば過去子供が集まって行った三角ベース「ろくむし」も人員と道具、環境が揃ってしまえば「野球をやった」と言わしめることも可能だ。では「初めて野球を行った」の「初めて」をどう定義するかにも食い込んでくる。実際東奥義塾で初めて行われた野球も対外的に行ったものなのか疑問も残るという井上氏の言葉はこの「初めて」を特定することがどれだけ難しいかを物語る。
現行は過去の言説に従うほかないが、この精度が鋭くなった際には歴史が書き換えられる可能性がある。
実際その歴史を書き換えるに至ったのが伊藤正浩氏(野球郷土史家)であった。
宮城県八木山グラウンドの登場から現在に至るまで、そして球場がどう生まれ、どういう経緯で試合が行われ、誰が誰へ譲渡していったかなどを丁寧に調べられていた。その中で八木山グラウンドが明治神宮野球場以上の広さであったことを示唆する文章が見当たったり、それほどまでしっかりと作られた球場がなぜ現存しなかったのか、などをわかりやすく発表されていた。
考えてみれば我々の住んでいる場所や過去住んでいたふるさとなどにあった野球を知る機会はほとんどない。なんならその土地から出たプロ野球選手すら知らない人だって少なくない。それが球場や大会などは猶更で、なぜこれが、いつ、だれの手によって始まり、今日まで残されているのかを知る手掛かりは非常に少ない。それゆえに過去誰かの記憶だけでまとめられた記録がないわけでもなく、調べてみれば全く違う結論に至った、という事も少なくない。
常識そのものを疑うのは学問のいろはであるが、そこから違った発見や、そもそも学術的考証を行われておらず間違ったまま伝わったものも少なくない。それを追う事の重要性、そしてなかなか掘り下げられない地方の野球を掘り下げる事の価値を改めて感じ取った次第だ。
今年は明治神宮野球場が百周年というのもあって多くの内容が明治、大正に戻るような内容であったように感じる。
残念ながら我が国日本ではsabrのような学術的観点から野球を掘り下げる行為をほとんど行われてこなかった。行ったとしても個人の範囲のものであり、多くの人が野球の文化史的背景に興味を持たず、持ったとしても追う事が出来ず頭脳の忘却に押しやっていることが多い。
そういう意味では改めて多くの文献や資料から野球を追う事の価値を見出し、そして新たな価値を創出していく意味合いは非常に高い。我々はやれ戦争だ功利主義だと、我々の持つ歴史を乱雑に扱いすぎてきた。
野球は日本で初めて取り入れられたスポーツである。スポーツという外来の持ち物だからこそ、武道しかなかった日本の土壌に新たな文化が入ってきた。スポーツを我が国が取りこむために武道の要素が多く入り、それが多くの問題を生み出してきたのもまた事実ではあるが、それを改めて整理することで我々の住んできた日本の現在がどういう成り立ちでこうなったのか。そこからどういう未来のビジョンが見えてくるのか、を指し示すことが叶うのだ。
改めてこのような場がある事に感謝を覚える。
我々は歴史がなくとも生きていけるが、歴史がなければ現在がないことを知ると、我々が未来の誰かにとって過去になった時その経過を示せる点の一つになりうる可能性に気付ける。その点の集積こそが文化であったと我々が口にできるのだ。
だからこそ、このような研究が続けられることを大切に思える。
このような学会が今後も存続してほしいと願うばかりだ。