ベーブ・ルースに勝った男達
ベーブ・ルースの登場によって今まで重要視されていなかったホームランの価値が見直され、現在に至ったというのは今更いうまでもないだろう。過去大谷翔平がベーブ・ルースと比較されてきたが、記録こそ大谷翔平がベーブ・ルースを塗り替えるような成績を残している一方、社会的価値観をそっくり入れ替えた影響力という点ではルースに追随できる人間は選ぶとしてジャッキー・ロビンソンくらいのものだろう。ベーブ・ルースという選手の存在はそれだけ大きかった。
その彼がシーズンホームラン王を取ったのが実に12回。ボストン時代が2回だけと考えるとヤンキースでどれだけホームランを打ったのかよくわかる。
言い換えればヤンキース在籍時はキャリアの大半が本塁打王であったという事でもある。
そんなベーブ・ルースも1932年、ダブルエックスことジミー・フォックスに乾杯するまでほぼ毎年本塁打を取り続けていた。
「俺のホームランを観に来ている」
とタイ・カッブにいった言葉の通り、本塁打を打ちまくっているのだ。
そんなルースですら本塁打王を取りそびれている年がある。
1931年のルー・ゲーリッグと同時受賞を含めれば三度ベーブ・ルースが圧倒出来なかった年があるのである。そしてその勝者を知る人は少ない。
そんなベーブ・ルースに勝った男達の話を少しだけしてみたいと思う。
1,殺人打線の要であった男、ルー・ゲーリッグ
ベーブ・ルースとのコンビと言って最初に上がるのはまさしく彼、ルー・ゲーリッグであろう。
コロンビア大でプレーしているところをポール・クリッチェルに見いだされて主砲となっていった彼の名を知る人は多い。
一塁を守っていたウォーリー・ピップの怪我と共に彼がスタメンにのし上がると著しい戦果を挙げ、ルースやボブ・ミューゼルらと共に1920年代後半を象徴するマーダーズロウ、殺人打線を形成。ヤンキースの栄華を誇った。
ピップとゲーリッグの交代劇をウォーリー・ピップの悲劇というがピップもまた1916、1917年と二年連続の本塁打王であった事、ピップ自身もゲーリッグに個人的な肩入れをしていたという記事もある事から悲劇というにはなかなか難しいものがある。ピップをゲーリッグが引き継いだという形だ。
ちなみに彼のニックネームをthe iron horseとして彼の連続出場になぞらえて鉄の馬と訳す人が非常に多いが、これには異議がある。1924年、世界初の西部劇として描かれたThe iron horseがあるように大陸横断鉄道を走る蒸気機関車を差している。当時ウォルター・ジョンソンがthe big trainとあるようにパワフルな列車を選手のニックネームとする風潮がなかったわけではない。
iron horseを連続出場から捉えるというのは過去広島のサードやファーストを守った衣笠祥雄の愛称、鉄人に引っ張られすぎているように思う。その衣笠ですら鉄人の愛称は連続出場ではなく28という背番号が横山光輝の漫画、鉄人28号を連想させたからというのはもはや有名な話だ。鉄人28号から変質していったようにゲーリッグのiron horseもそういった由来というほうが近しく思う。
通算打率.340、493本塁打、1995打点と暴れに暴れたパワーをiron horseと仇名したのではないか、と考えている。
閑話休題。
ルースがベテランの域に入り、世代交代が見えてきた頃に彼の二番手であったゲーリッグが本格的に台頭してくる。ジョー・ディマジオが彼を次ぎ、1939年悲劇のうちにメジャーの舞台から降りるまでヤンキースというチームの看板であり続けた。
そんな彼は1931年、ルースと同位の46本で初本塁打王を取っている。ルースと同時受賞ではあるがジミー・フォックス、ハンク・グリーンバーグとの死闘を繰り広げながら合計三度の本塁打王を受賞する。
もし彼が病に侵されていなかったらどういう結果になっていただろう。夢想の楽しい選手である。
2,殺人打線の隠れた要、ボブ・ミューゼル
殺人打線の名前を聞いてボブ・ミューゼルが出る人は稀であろう。
特に日本人になるとルースとゲーリッグの二人が出れば御の字でトニー・ラゼリやハーブ・ぺノックが出てきたらよく知っているほう、というくらいだ。
ただ、殺人打線を語る上で忘れてはならない長距離打者がボブ・ミューゼルなのである。
long bobと呼ばれたボブ・ミューゼルは191cmという当時にしても高身長と強肩で鳴らした選手だった。ベーブ・ルースの陰に隠れがちな選手であるが、通算143盗塁、368二塁打、95三塁打という成績がどういう選手かを物語る。
ライブボール時代の寵児の一人であるとはいえ打率も三割を記録。一流打者は三割を打てるものとタイ・カッブが言わしめる時代である。その高い打撃技術がヤンキースのマーダラーズロウを支えた男の一人であることを改めて思わせる。
ホームラン数も11年のキャリアで156本。決して本塁打を多く放つ投手ではなかったがそれでもルースが調子を崩した1925年には33本、134打点という成績をしっかり残し、その時に本塁打、打点の二冠王を奪っている。
こう書くとルースがいなかったからタイトルを取れたと思われるような形ではあるが、前年1924年の打点はルースと同じ124打点。
通算打点1071打点のうち100打点以上を記録したのは5回。50打点を下回った事がないシーズンはなしという生粋の打者であった。
また兄のアイリッシュ・ミューゼルもフィラデルフィア・フィリーズ、ニューヨーク・ジャイアンツで活躍しており1923年にチーム二冠王で主力として打点王も獲得、三度もミューゼル率いるヤンキースと戦っており、兄弟がワールドシリーズで何度も争っている。
アスリート兄弟でもあった。
3,唯一ヤンキース以外から下した男、ケン・ウィリアムズ
しかしジミー・フォックスに負けるまでほとんどがヤンキースの選手に下されたことを鑑みるにいかに当時のヤンキースに人員が揃い、ヤンキースタジアムが近代野球に即した球場であったかを思わせる。
そんな中、唯一ルースを他球団から下した選手がいる。
それがセントルイス・ブラウンズのケン・ウィリアムズだ。
恐らく多くの方が首を傾けるだろう。考えてみれば100年前の海外の選手だ。知る人の方が少なくて当然だ。
それどころか彼はアメリカですらあまり知られていない。
それもそのはずセントルイス・ブラウンズというチームはそのほとんどが負け越したチームであり、弱小球団のレッテルを張り続けられている。その主砲がどういう選手だったのか、そもそも主砲がいたのか、と疑問にすら思われないかもしれない。
しかしいたのだ。
確かにベーブ・ルースが不調のタイミングではあったが、ルースを下した選手が。それがケン・ウィリアムズだ。
彼が本格的に台頭してきたのは1920年。シンシナティでデビューした彼はあまり打つことが出来ずに二年でリリース。流れるようにセントルイス・ブラウンズにやってきた。
その時のブラウンズの主砲はそのプレーからゴージャスの名を冠した選手、ジョージ・シスラー。のちにイチローが安打記録を塗り替えた男である。
ジョージ・シスラーという男もブラウンズというチームでは輝いていた多くの逸話がある男なのだがここでは割愛する。
ケン・ウィリアムズが台頭してくるのは1921年以降。ライブボール時代に突入してからである。21年に彼は.347、24本、117打点と一気に活躍すると翌年一気に爆発。
1922年、.332、39本、155打点で二冠王を達成することになる。
この時本塁打二位は過去ツーハンデッドマンをしていた頃のルースとプレーし、1918年にはルースと本塁打王を分け合ったティリー・ウォーカーの37本、ルースは35本と三位に落ち込んでいる。
打点に関しては圧巻の一言でルースはおろかタイ・カッブ、シスラーといった名だたる面子を追い抜いて二位のボビー・ビーチ(デトロイト・タイガース)の126打点に29点も上回っているのだ。
ケン・ウィリアムズの1922年は激しいスタートを切っており、4月22日のホワイトソックス戦では1試合3本塁打6打点から始まり、そこから25日までに6本たたき出している。
とにかく打ち始めると止まらなくなり、4月29日のインディアンズ(現ガーディアンズ)ではスタン・コベレスキーから2本塁打3打点。7月28日のヤンキース戦からサッド・サム・ジョーンズから2ランホームラン、29日から8月1日まで続くレッドソックス戦ではハーブ・ぺノックから2ランホームラン含む毎日本塁打を計上、8月2日のアスレチックス戦までホームランを放つ、とにかく日続きでホームランを打っているのである。
最期の39本塁打目がかのbig trainウォルター・ジョンソンから、ととにかく多くのエースと呼ばれた選手を打ち崩しているのだ。
ホームランで築いた打点は脅威の73打点。ここにヒットが乗ってくるのだからどれだけケン・ウィリアムズが爆発したのかが分かるだろう。
また彼はこの年37の盗塁を決めている。285二塁打、77三塁打、154盗塁という脚力と走る技術の高さは上記の選手たちには持ちえないもので、当時でこそ目立ちはしなかったもののその存在感が伺える。
そして39本、37盗塁という打にも走にも活躍した、世界初の「30-30」として記録されている。
一方守備はお世辞にもよくなかったようで、13シーズンのうち通算エラーが137というのは外野にしても多すぎており、いかに攻撃に特化したプレイヤーであったかを物語っている。
この年ブラウンズは2位に肉薄。1位こそヤンキースに奪われてしまうものの、彼やシスラーが落ち着いていくと段々と勢いが失われ、結果我々のイメージするセントルイス・ブラウンズになっていく。
彼の一打がブラウンズの今後を決める、ある意味でシスラーとは違った形でブラウンズを象徴する選手であった。
4,終わりに変えて、誰もが必ず時代に咲く花
以上三人が全盛期のルースを下した三人であった。
恐らくゲーリッグ以外はほとんど初めて名前を聴くような選手ではなかろうか。そうなのである。
時代に大きく咲いた花びらの周りについた花はいかに美しかろうともなかなか目に行かないものなのだ。どれだけ色付きがよくとも、可憐であろうとも多くはその大きさに目が行ってしまい、それらに気付きもしなくなる。
しかし一つ一つ手に取ってみると面白い結果が必ず隠れている。我々の想像以上に面白い理屈が隠されているのだ。
多くは歴史を調べる事に意味をなさないという。そうではない。その時代に生きたものが必死につけた傷跡は残してさえいれば必ず見てくれるのである。そこに勝敗はなく、同じ時代を戦った選手として等しく大切に扱われ、それどころかメジャー初の30-30にぶつかるように現在活躍する大谷翔平の影すら感じさせられる一幕もあるのだ。
だからこそ記録というのは愛しい。
それはその時代に生き、戦い抜いた人たちが残してきた軌跡であり、それを垣間見ることが出来る事こそ奇跡だからだろう。