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10勝二桁本塁打のあった1918年 ~ベーブ・ルースの二刀流を追う~ 前編

1,大谷翔平、10勝二桁本塁打を挙げる

1918年ぶりという事だ。
8月10日、先発として立った大谷翔平がアスレチック戦で6回無失点。エンゼルスは5-1で勝利し、勝利投手として10勝をマーク。
それによりベーブ・ルースの持っていた10勝二桁本塁打を104年ぶりに達成したという事だ。

これによりMLBにおいて大谷翔平の「NITOURYU」が野球界で目立つ事象になったのは間違いないだろう。
日本でも日本体育大学のエース、矢沢宏太がドラフト一位候補になるなど、着々と「二刀流」の存在が野球界で認められつつある。
一人の日本人選手が野球界の常識を少しずつ塗り替えていく時代を目の当たりにしている。

しかし、だ。
数値的な記録達成を喜ぶばかりで104年前の1918年、いわゆるベーブ・ルースの10勝二桁勝利を語っている事は非常に少ない。
歴史を以て大谷翔平の記録達成を祝うのであるならば、改めてベーブ・ルースの時代を見直すべきではないか。

2,ボストン・レッドソックスのエース、ベーブ・ルース

私のようないわゆるアラフォーに入った人間ならとかく、今の二十代でベーブ・ルースが投手であったこと、それも専任であった事をはっきりと言える人も少なくなったであろう。
大谷翔平の存在によって投手もやっていた、という事を知られたという方が正確ではなかろうか。それほどベーブ・ルースといえばホームラン王の印象を持たれている。

しかしホームラン王ベーブ・ルースが本格的に台頭してくるのは投手をやめて打者として専念してから、という事を知る人は少ない。
その前はピッチャーとしてエースであった。

1914年にデビューしたのち1915年から18勝8敗。
エースこそ前年から彗星のごとく現れたルーブ・フォスターの存在によって阻まれている(19勝8敗)が、1917年、ルースと継投ノーヒッターを達成したアーニー・ショア、100勝投手となるダッチ・レオナルド(15勝7敗)、快速投手で速球が消える事からスモーキーと呼ばれたスモーキー・ジョー・ウッド(15勝5敗)の強力投手陣を形成。
また、アンダーハンドで200勝投手、そしてレイ・チャップマンへの頭部死球など多くの名を残すカール・メイズの登場などこの年のレッドソックスの投手力が垣間見える一年であった。

また1910年代のレッドソックスと言えばトリス・スピーカー、ハリー・フーパ―、ダフィー・ルイスの「100万ドルの外野陣」、セカンドにフィラデルフィア・アスレチックスで「10万ドルの内野陣」の一人として活躍していたジャック・バリーと野手陣も豪華。
1915年のワールドシリーズチャンピオンに輝いている。

翌年1916年にはスモーキー・ジョー・ウッドが消えるものの、ベーブ・ルースがエースとして台頭。ダッチ・レオナルド、アーニー・ショア、そして先発として台頭してきたカール・メイズとここでも活躍。
ルースの23勝を皮切りに彼ら四人とルーブ・フォスター含む五人で89勝(総勝利数91勝)。その年もワールドチャンピオンに輝くなど大活躍であった。
1917年も優勝こそ逃すものの五人で83勝(総勝利数90勝)で二位。そのうちルースが24勝と、彼が投手としてどれだけ存在が大きかったかがわかる。

投手として大活躍していたのだ。

3,球界のエースにはなれなかったベーブ・ルース

恐らくここまでは知っている人も多いし、この時代wikipediaを開けばこれくらいは調べれる時代だろう。
しかしなぜここまで勝っておきながら彼は投手として名を馳せていないか。
彼はボストンのエースでありながら、何故ここまで存在感が薄いのか。

それは彼のいた時代には投手の傑物にしてワシントン・セネターズ最高のエース、ウォルター・ジョンソンがいたからである。
1907年にデビューしてから引退の1927年までほとんど二桁勝利を挙げ、多くの投手タイトルを総なめにしてきた"ビッグ・トレイン"と時代を分け合ったのだ。
1916年にこそルースは最優秀防御率を取るものの、それ以外はほとんどジョンソンに敗北、球界のエースとして名前を出せずにいた

そのジョンソンも1917年には調子を落とし、遂にルースの時代が来たかと思えば1900年代のボストンで投げ、シカゴ・ホワイトソックスに流れていたエディ・シーコットが33歳にして開花。奪三振もジョンソンに奪われてしまい、ほとんど二位以降に名前を載せている。
現在の統計学を駆使すれば少しだけ名前を見出せるが、それでもジョンソンとシーコットの影に隠れており、1918年以降は打者と兼任していく事もあって投手ベーブ・ルースの存在は薄くなっていく。
最優秀防御率のみ、という球界のエースというには少し寂しい存在であった。

4,「彼は打者として毎試合出た方が価値がある」

世間一般にいうルースの二刀流が始まるのは1918年。
打者としての素質があったから選ばれたという印象を持つが決してそうではない。
ここにはボストンの選手事情が絡んでくる。

1915年オフに100万ドルの外野陣を形成していたトリス・スピーカーがトレード。同じタイミングにセントルイス・ブラウンズから取った強打のタイリー・ウォーカーがそこに埋まったものの1917年にクリーブランド・インディアンズにトレード。
1917年オフには第一次世界大戦への従軍のためダフィー・ルイスが不在と外野手事情が一気に変わっている。100万ドルの外野陣は1918年には崩壊し、残すところハリー・フーパ―のみとなっていた。

ハリー・フーパ―は一番右翼としてボストン外野の要の一人であった。
日本でこそ馴染みの薄いフーパ―であるが、ボストンの外野陣を語る際、最高の外野陣を形成した時の選手かつ後に主将を務めるなど、ボストンでの存在感は非常に強い存在である。

その彼が1917年オフに提言をしたのがルースの人生を大きく変えたと言ってもいい。
「ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる」
今やwikipediaにも書かれた言葉が打者ルースを作り上げる事になる。

前述したとおり100万ドルの外野陣は崩壊していたが、フィラデルフィア・アスレチックスから俊足のアトムス・スタンクを起用したもののレフトを守る選手がいなかった。
暫定としては35歳のジョージ・ホワイトマンがいたものの、活躍出来ていたかと言われたら首をかしげる。数合わせでなんとか埋めた、という方が正しい。

そこに白羽の矢が立ったのがルースであったのだ。

この後どうなったかは次回お話します。

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