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世界一幸せな男は今も幸せか ~ルー・ゲーリッグを語る~

1,世界最初の永久欠番

 その男以降に袖を通す事のない背番号をどの世界でも永久欠番という。日本では読売ジャイアンツの背番号3は長嶋茂雄以外に背負う事を許さないし、近年では黒田博樹の背番号15が重い背番号となった。
 とりわけ自分の応援している球団の永久欠番を覚えているファンは多かろうし、それがどういう選手なのかをある程度話す事が出来れば通を名乗ってもいい、というような風潮もある。

 奇しくも野球という世界で初めて生まれた永久欠番は日米共に「4」である。そして共に大都市の球団が最初に持つことになり、その二人は病により野球を出来なくなった事からその称号を贈られる事になった。
 言わずと知れたニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリッグであり、読売ジャイアンツの黒沢俊夫である。

 このような場末の文章を読んでいる諸氏においてルー・ゲーリッグを知らない者はいないだろう。アイアン・ホースの名を持ち、2160試合という途方もない試合数で続けた男の名を知る人は少なくない。
 意外な事だが1840年代にアイアン・ホースと呼ばれていたのは蒸気機関車であった。日本では直訳のあまり「鉄の馬」で止まり勝ちであったが、ベーブ・ルースや在籍したボブ・ミューゼル、ウォーリー・ピップなどに劣らぬ打撃はルースとは違ったパワフルさを持ち合わせた姿を想像するのは容易だ。

2、ヤンキースの背番号が始まった時

 ニューヨーク・ヤンキースというチームの歴史において背番号を開始したのは1929年である。背番号をつける、という事はアイスホッケーなどの風習を各球団が取入れ、現在の形式になったのはヤンキースが初めてである。
 そのため古い球団の永久欠番には背番号なしという選手がいる。現在サンフランシスコに本拠地を持つジャイアンツがニューヨークに在籍していた1900年前後、ジャイアンツ帝国を作り上げたジョン・マグロ―や彼が絶対的エースとして扱ったクリスティ・マシューソンは背番号なしの永久欠番として1988年登録されている。それだけ背番号というのは歴史が浅かった。

 そしてその背番号4を初めて背負った選手が何を隠そうルー・ゲーリッグである。ヤンキースの背番号4は後にも先にもルー・ゲーリッグしかいない。これは黒沢俊夫も持たない唯一無二のものだ。

 ちなみに1929年当時の背番号を出すとこのようになる。

1・・・アーリー・コブス(HOF)
2・・・マーク・コーリング
3・・・ベーブ・ルース(HOF)
4・・・ルー・ゲーリッグ(HOF)
5・・・ボブ・ミューゼル
6・・・トニー・ラゼリ(HOF)
7・・・レオ・ドローチャー(監督としてHOF)
8・・・ジョニー・グラボースキー
9・・・ベニー・ベンゴーグ
10・・・ビル・ディッキー(HOF)
11・・・ハーブ・ぺノック(HOF)
12・・・ウェイト・ホイト(HOF)
・・・など

 野球殿堂入りがこの時点で7名いる事もすさまじい。選手としては地味であったレオ・ドローチャーは「オール・アメリカン・アウト」と呼ばれるほど打てなかったが後年セントルイス・カージナルスのショートを守り、監督時代は一黒人選手のメジャーデビューに際して「能力が高ければだれでも使う。肌の色は関係ない」と言い切った男でもあった。(その年は女性と駆け落ちしてドジャースの監督を出来なかったが)
 ボブ・ミューゼルも地味ながら1925年、ベーブ・ルースを抑えて本塁打王を獲得した経験もあるなどまさにマーダーズ・ロウ(殺人打線)と呼ばれたヤンキース黄金期の面影がある。
 ボストン・レッドソックス時代のエースベーブ・ルースの姿を知りながら同じチームで今度は自らがエースとなってヤンキースを率いた”ケネットスクエアの騎士”と呼ばれた241勝投手ハーブ・ぺノック、ジョン・マグロ―から”スクールボーイ・ワンダー”と呼ばれた237勝投手ウェイト・ホイトなど投手も壮観だ。

 しかし彼らは後に背番号を変更したり、退団後に背番号を譲る事がほとんどである。あの背番号3ですら1948年のクリフ・メイプスに至るまで7人のプレイヤーがルースの後に背負っている。

 ゲーリッグが背負った背番号4はゲーリッグ以外背負っていない、という永久欠番でも珍しい記録を持っている。

3,世界一幸せな男です

 ゲーリッグの引退は6月21日。ルー・ゲーリッグ病と言われる筋萎縮性側索硬化症(通称ALS)であると診断された彼は引退を決意する。そして7月4日に引退セレモニーと称されるゲーリッグメモリアルデーを制定。
 そこでされたスピーチは野球を愛する人なら知るものであろう。

Fans, for the past two weeks you have been reading about a bad break. Yet today I consider myself the luckiest man on the face of the Earth. I have been in ballparks for seventeen years and have never received anything but kindness and encouragement from you fans.

 私はこの世で一番幸せな男です。

 この言葉が世界の野球史においても有名な言葉である事を否定するものはいない。しかしこの言葉が世間に大きく取り扱われるようになったのは映画「打撃王」から。
 まさに野球と映画大国ならではの言葉であった。

4,ゲーリッグを後継者と呼んだ男

 と、ここまでは正直に言えばwikipediaでも読めるような内容しか書いていない。
 野球史において歴史的偉人であるルースやゲーリッグはもはや日本版でもあらゆる角度から書き尽くされた男の一人である。では最後に違うところを書いて終わりにしよう。

 彼の前にヤンキースのスタメンを打っていたのは誰か。
 それは最初にもちらりと映ったウォーリー・ピップである。

 実は彼こそヤンキース古参のホームランバッターであった。
 1913年にデトロイトタイガースでメジャーデビューを果たすもの、すぐに解雇。その二年後の1915年にヤンキースのユニフォームに袖を通す。
 当時のデトロイトタイガースといえばタイ・カッブやサム・クロフォードを中心にダニー・ブッシュなどが揃う強力な打線。そこに20歳の彼が食い込むことはできなかった。
 ただ3三塁打を放つなど、その存在感がちらりと姿を見せている。

 1910年代のヤンキースは現在のような華やかなチームではなく、ニューヨーク・ジャイアンツを中心にしたナショナルリーグの強いニューヨークで比較的新参者扱いされていたアメリカンリーグの、それも大して強くもない球団であった。
 球場もジャイアンツのポロ・グラウンズを間借りしているような状態で90年代東京ドームに籍を置いていた日本ハムファイターズのような「いる事は知っているけどわざわざ球場に観に行くのは物好き」みたいな扱いをされていた。ヤンキースですらそのような時代がある。
 そこでピップは13三塁打4本塁打という豪打を見せつけている。まだ野球というスポーツが走るゲームであるといった認識やボールの反発係数などから本塁打よりも三塁打の方が重く見られる時代においてピップは地味な球団にやってきた光り輝く男であった。
 1916年にはフィラデルフィア・アスレチックスで10万ドルの内野陣の一角を担ったホームラン・ベイカーが加入。強力な打撃陣を形成する事になった。
 この年ピップはベイカーを抑え12本塁打で本塁打王。三塁打も14と打っている。特に93打点はヤンキースというチームの看板であることを証明するだろう。
 翌年1917年も9本で本塁打王。打率こそ低いものの必ず打撃十傑に名を連ねる強打者だったのだ。

 1920年以降はベーブ・ルース、ボブ・ミューゼルと言ったメンバーが加入してきたことによって影が薄くなっていくが、それでもヤンキースの主砲である事を象徴するようにヤンキース強力打線の一角を形成していった。

 そんな彼が1923年、コロンビア大学でプレーする一人の若者を見つけている。それがルー・ゲーリッグであった。この時ピップ30歳。少しずつではあるが自分の衰えや引退後の将来を考えていたのだろう。監督ミラー・ハギンズに獲得を進言している。
 その際自分の後継者としてピップ本人は考えていたようだ。今と違って一年でも長くプレーを続行したいという選手もいれば一定の年齢を期に得た金銭を使ってどう生きるかを考える選手も少なからずいた時代。彼にもあと数年もしたら、というのはあったのだろう。

 1924年、そんな自分のキャリアイメージに反して.295 9本 110打点とこれほどかというほどの活躍をする。ルースの登場によって本塁打の価値が一気に上がった当時、もはや古臭いプレーかもしれないが19三塁打を放ち三塁打王。
 ゲーリッグが仕上がるまでの繋ぎとして活躍出来るという算段はあったのだろう。まだまだ老いるわけではないという雰囲気だ。

 しかし1925年。天秤はゲーリッグに傾く。
 wikiediaには6月1日の代打から一気にスター街道にを走ったと記載されている。貧打のポール・ワニンガーの代打で出たあと休みを申し出たピップの代わりにスタメン入りしたゲーリッグがそのままスタメンに入っていく、というものだ。
 実はこれは若干の間違いがある。

 例えばポール・ワニンガーは確かに打線の中では貧打に属するが前年のショートのスタメンであったエヴァレット・スコットからスタメンを奪ったばかりの21歳であり、結果として打率.236に落ち着いてしまうがその時は1番ショートとして三割ちかく打っていた事。ワニンガーが2,3打席入ってゲーリッグの代打を通しという起用方法で、実際にはこの前からゲーリッグは少しずつ入っており、書かれているように急にスタメンになったわけではない。

 それどころか5月1日のレッドソックス戦ではレフトとしてスタメン起用もされており、期待こそされていたが結果が伴っていなかったという状況であった。
 ちなみにその伝説の始まりとされる6月1日までのゲーリッグの打率は.174。どう見積もっても期待できる成績ではなかった。

 また、5月はベーブ・ルースが不振などもありスタメンをはく奪されており。コブ、ミューゼル、ピップという打線であり、ポイントゲッターが弱っていたのもあり打線としては弱く負けが込んでいた事の三点がある。

 では6月2日なにがあったかというと5月28日のダブルヘッダー以降、5連敗をしていたヤンキースが久々に勝ったというところが特徴的だ。そこから彼はスタメンになっていく。ベーブ・ルースが今季初のホームラン。ここ勝利の目もついたし、ルースという絶対の打者が帰ってきたからこそスコットの代わりにワニンガーを置いたように世代交代も兼ねたお試しスタメンだったと見た方が自然ではないか。

 とはいえピップはゲーリッグより力がなかったからスタメンを奪われたのであろうか。これは半分正解であるし、半分間違いでもある。
 年齢的な要素もあるだろうが、ゲーリッグは二割を切っていた6月1日から30日に至るまで打率を三割まで上げている。ピップはどちらかと言えば低打率ではあるものの当たった時の強打、走塁でチームを巻き上げていく古いタイプのバッターである。
 一方ゲーリッグは足はないものの強打の上に安定性がある。その差があるだけでどちらを使うかは監督次第といったところだ。
 ではなぜゲーリッグが選ばれたのか、と言われたら彼がスタメンに定着したときはルースが帰ってきた時であったというのも大きいだろう。ピップのように点を取るために色々試行錯誤する1910年タイプよりは打撃に特化した1920年タイプの打撃をするゲーリッグの存在の方が、ルースという得点屋を持つヤンキースには扱いやすかったという方が正しい。
 これがもし現状ミューゼルのまま四番を使っていたらゲーリッグのデビューはもう少し遅れたと見た方がいい。ルースという偉大な得点屋がいなかったからこそ一人一人が暴れられるピップのようなタイプが望まれたに他ならない。
 しかしそれも5連敗という無残な結果を出してしまった。そのためルースの帰還と同時に一気に切り返されたという方が正しい。特にメディアからの強いバッシングや飛ばしも多いニューヨークである事から一度ハマった形を簡単に変えるわけにもいかず、という事情も見え隠れするがやはりルース、ゲーリッグの新しい道を作る算段が整ったとみてもいい。
 そういう意味では通称ウォーリー・ピップの悲劇と呼ばれる一連の流れは1910年タイプの打撃方法と1920年代以降の打撃方法が切り替わる転換点にあり、それをピップが後継者としたゲーリッグに繋がるのは、いわば早すぎた世代交代だったのではなかろうか。

 なお、この後にピップは練習中に頭がい骨骨折。シーズンを棒に振りオフにウェイバー公示されシンシナティ・レッズへ行く事になる。
 しかしまだ衰えるつもりはなかったのか1926年ファーストで定着、最終的には三番をうちチーム打点一位の99打点。MVP候補にも選ばれている事から多くの理由さえなければもう少しヤンキースでもやれていたのではないかと思う一方、年齢による衰えを隠せず1928年に引退している。やはり遅かれ早かれ彼はゲーリッグに道を譲っていたのだ。

5、世界一幸せな男は今日も幸せか ~最もヤンキースの血が濃い男~

 そんなゲーリッグはヤンキースで長らく主砲を任されていたピップに後継者と言われ、1920年代の主砲であったベーブ・ルースに「私の後を打つのは彼だ」と言わしめたようにチーム多くの選手から愛されていた事が受け取れる。
 ピップも早すぎる世代交代に憤慨こそすれど彼自身が自分の後を継ぐことは遺憾なかっただろうし、なによりピップのそれに彼は応えるような成績を残す。
 事実ピップになかった打率や選球眼はずば抜けており、ピップの後継者どころか藍より出でて藍より青しを行くような成績を残していった。ピップがいなければ現在の彼はなかったし、もっと違うような人生になっていたかもしれない。

 まさにルー・ゲーリッグという打者は、弱小ヤンキースの頃からチームを支えてきたウォーリー・ピップからヤンキースの主砲を引き継ぎ、ボストンからやってきた本塁打王ベーブ・ルースと肩を並べながらニューヨーク・ヤンキースというチームの黄金期を牽引してきたiron horseであった。
 まさに最もヤンキースの濃い血を持った男であり、そしてその濃さのままチームを去っていった男であった。
 これを継ぐのは彼の引退セレモニーで「初めて球場で涙を流した」といった男であり、ボストン・ビーズ(アトランタ・ブレーブス)でぶんぶんバットを振り回していた兄ヴィンスと同じ年にメジャーデビューした24歳のジョーなのだがそれはまた別の話。

 そんな彼も球場を去ってから84年も経つ。
 彼はまだ世界一幸せな男のままなのだろうか。

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