頑張れ青柳晃洋。君はプロ野球の花だ
11月5日、日本シリーズ第七戦の先発投手が公表された。
オリックスの先発は宮城大弥。本日山本由伸が投げたからある意味でオーソドックスな起用だろう。
対する阪神はなんと多くの予想から外れて青柳晃洋であった。
2021年からエースとして本格的に台頭してきた彼は今年ずいぶんと苦しんだ。成績は8勝6敗。防御率は4.57。期待の若手であれば両手を上げて喜べるこの成績も二年連続で二けた勝利を挙げた男にしては寂しい。
いつの間にか村上頌樹や伊藤将司といった若い力がどんどん伸びあがってきて彼の名前は隅に追いやられていた。
2022年、中日大野雄大とあれほど熾烈な投手戦をした彼が、今年の開幕投手であった彼が。
あまりにも寂しいシーズンであった。
その彼に最後の試合の先発を任せようというのである。
これに私は胸がぐっときた。
最後の最後、一番重要な局面で任せるといわれることがどれだけありがたいことか。
言い換えたら監督岡田彰布は開幕投手で始めた彼でこのシーズンを終えるというのである。それがどういうことを意味するかを考えるとこれほど泣けることもない。
確かにファンの中では納得いかない人もいるかもしれない。
日にちの開き方で考えたら伊藤将司でいいかもしれない。事実上阪神のエースとなった彼が締める、というのを望む人がいてもおかしくない。
西勇輝だってリベンジを望んでいるはずだ。勝利投手、という概念を捨ててショートイニングで大竹や才木など、過去の10.4のように持ちうる投手全部で勝負したっていい。
それでも青柳なのである。青柳晃洋なのだ。
伊藤でも西勇でも西純でも大竹でもなければ、青柳なのだ。
ある人は青柳の登板を
「1976年、足立のようになってほしい」
と祈った。
1976年、巨人と阪急の日本シリーズはそのほとんどが山田久志、足立光宏、山口高志の三人で投げている。
その中の足立が最終戦先発。見事に完投している。
多くが山田→山口、足立→山口、山口→山田、というような途中で投手を変える起用を行っていたにも関わらずだ。
この七戦、足立が九回2失点で投げ切っている。完投は三戦目の山田とこの二回だ。
その最終戦に立ったのは阪急の絶対的エース山田でもなく、パリーグを圧巻の渦に巻き込んだ山田でもなく、足立だったのだ。前日の六戦、先発山口が6回で捕まって投手をスイッチする際、足立ではなく山田を選んだのだ。
7戦目は足立で戦うことを選んだのだ。
足立はどう思っただろうか。気概を感じたのだろうか。
多くの書籍には第七戦目の「騒げ騒げ」しか残っていない。
しかし、事実として残っているのは監督上田利治は足立を最後の先発に選んだことだけだ。
私はこのような瞬間にプロ野球の「夢」を感じる。
エースでありながら苦しいシーズンを味わった元エースを最後に任せるような瞬間。
それは我々が青柳に伝えたかった
「お前のこと、凄かったお前のことは忘れていないぞ」
という言葉を代弁するかのような先発起用。
そこに夢を見るのだ。
多くの人は「球界のエースで、活躍してアメリカでも快刀乱麻で」ということを夢に挙げるが、私はそう思わない。
彼らがいくら活躍しようが私には関係ないからだ。彼らが彼らのために必死になって出した結果を見て、いちいち顔の色を赤くしたり青くしたりしているわけで、我々の喜びも悲しみも選手には関係ない。彼らは活躍すれば年俸が増え、しなければ減る、というだけの事実と戦っている。
そういう姿はプロ野球選手の本文ではあるが、それだけでは正直に言ってつまらないのだ。
まるでエンジンの馬力を見せられているだけのような苦い感覚を覚える。それをマシンに取り付けて、タイヤと地面の摩耗に苦しみ、そして同じ条件のライバルとたたき合うような興奮を覚えないのだ。
気付くのだ。
俺は「人と人の戦い」が観たいのであり、「人と人の戦いで何が起こり、どう思ったか」が観たいのだ。
そこに多くの「たら」「れば」が生まれる。そしてその「たら」「れば」をずっと夢見続ける。
これこそ「プロ野球の夢」なのだ。
そういう意味では近年のプロ野球はあまりにもアスリートチックすぎた。
「計算の上」「数字の上」が正しいといわんばかりに均整の取れた起用が、試合が進んでいく。新しい記録は塗り替えられるが「それを握りつぶしてやる」と言わんばかりの情熱を吐き出す選手はいなくなった。
「彼はすごい」「かないませんね」
一度見たらわかるような言葉が増えていった。
次第にプロ野球は無味無臭になっていった。
記録だけが積み重ねられる。多くのファンは同じ時代に生きたことを感謝すれど、その試合のすさまじさを語る人はいなくなった。
「この選手を観れてよかった」
は多くなったが
「この試合に立ち会えてよかった」
はどんどん失っていった。淡々と試合は消化され、試合一つ一つに生まれるだろう物語はなくなっていった。
プロ野球は数字の羅列に向かっていき、文学ではなくなっていった。
そういう姿に私はどこか飽きを感じてプロ野球をほとんど見なくなってしまった。数字の羅列がみたいのならパワプロでもやっているほうがよっぽど自分への慰めになる。
そしてそれは「マッチメーク」がなくなっていたことを痛感したからでもあった。
「試合が勝とうが負けようが、この戦いは観なければならない」
がなくなっていく。長嶋茂雄と村山実のように、山田久志と門田博光のように、原辰徳と津田恒美のように、松井秀喜と遠山奬志ように。
エース同士の熱い戦いであれば、そこでしか輝けなかった男もいる。
過去「新人にタイトルを総なめさせるわけにはいかん」と長嶋茂雄に立ち向かった田宮謙次郎のような男はいなくなった。
そして投手四冠がたった一人の男に何度もさ総なめされた。
20もいかない男に完全試合、それも一試合三振記録を塗り替えられるような試合を決められ誰もくやしさをあらわにしなかった。
「どうしてもこいつにだけは負けたくない」
口にする選手はいなくなり
あるのは
「おめでとう」「すごい」
結果がだけが置かれた。
そこに携わった誰の感情も見えない、結果だけが。
それを見るたびに興ざめしていた。
誰でもいい。一人でいい。
誰でもいいから「悔しい」と叫んでくれ!!!!
「このままでいいわけがない」と吠えてくれ!!!!
多くの現実に生きる俺たちに「選手一人一人の生きざま」を見せてくれ!!!!
俺たちを、いろいろな現実に晒されながらなんとか生きている俺たちに、俺たちとふと一瞬だけ重なる姿を見せてくれ!!!!
それはきれいなものじゃない。時には薄汚れているかもしれない。
それでもその燃え上がる「なにか」が観たいんだ。
俺たち一般人と選手の重なる「なにか」が見えたとき、それが「夢」になるんだ。
見せてくれ。夢を!!!!!
しかし現実は結果だけが先行し「〇〇がすごい」「〇〇は素晴らしい」の言葉に飲まれていき、かき消されていった。丁度火に水をかけるように。
プロ野球に興味が薄れていった。パワプロで投手四冠投手と三冠王が帯同するチームを作ってるほうがよっぽど面白かった。
そして今日、私は夢を見た。
今シーズン、あれだけ苦しんだ青柳が最終戦の先発に立つ。
開幕投手に選ばれながらエースとしては不甲斐ないシーズンを送ってしまった彼が、エースとしてマウンドに立つことを求められた。
多くの苦難を超えた先に、最後の試練が立ちはだかった。
その姿を、阪神ファンは何度も目の当たりにしたはずだ。
その苦しむ姿に俺たちは、この厳しい現実を立ち向かう俺たちと同じなにかをみるはずだ。
その時、プロ野球は「夢」を見る。
頑張れ青柳晃洋。君はプロ野球の花だ。
美しくあでやかに咲いた花だ。
そしてこの最終戦がどういう結果になっても、その美しさを見せながら、彼にとって納得のいく試合であってほしい。
出来れば彼に勝利を花咲かせてほしい。
そう思う。
私は、久しぶりにプロ野球で夢を見させてもらった。
それが、幸運につながってほしいと思うのだ。