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PRIDE OF MANHATTAN ~NEW YORK GIANTS and POLO GROUNDS~

1,「ニューヨークで強い球団はヤンキースか、ジャイアンツ」

ニューヨークを代表する球団とはどれか。
その多くがヤンキースを指すであろう。現在で言えばそれで正しいといえるかもしれない。
しかしこれが半世紀も前になると少し事情が変わるかもしれない。勿論ヤンキースが強く、ワールドシリーズ五連覇の熱冷めやらぬ時期でもあったから「ヤンキース」というかもしれない。反抗者の目で「ドジャース」というかもしれない。
しかし、年寄であればこういうかもしれない。
「ニューヨークの象徴はヤンキースでもドジャースでもない。ジャイアンツだ」
と。

サンフランシスコに拠点を構えて半世紀経った今ではジャイアンツがニューヨークの象徴どころかニューヨークにあったことすら印象がないのかもしれない。せいぜいバリー・ボンズのいたチーム、くらいの印象しか持たないといわれても分からなくもない。
アメリカの球団そのものに興味がないといえばそうだし、その歴史となるとその人数はなおさらであろう。世の中の人は歴史の連なりに気にする人など稀だ。
しかし日本にもあるジャイアンツがその球団の名前を参考にした、と言われたら驚く人もいるだろう。ジャイアンツも最初からジャイアンツを名乗ったわけではない。アメリカの東京にあたる市の強豪チーム。そこで名前が挙がった球団の一つがジャイアンツだったのだ。日本の野球チームを世界一にしたいという理由である意味のれん分けのようにジャイアンツの名を冠した。
ジャイアンツを名乗る際に名付けるきっかけがあったのだ。

そんなニューヨークを代表するジャイアンツが最後まで使った球場がポロ・グラウンズだ。

2、セントラルパーク近くにあった広い野原がポロ・グラウンズ

マンハッタンにとってポロ・グラウンズの存在は大きい。
エリー湖とハドソン川を結ぶエリー運河の誕生とともに多くの移住者を招くことになったマンハッタンはオランダ人入植者と現地民との争いやアメリカ独立戦争の傷跡も忘れ、一大拠点となっていた。過去首都でもあったニューヨークはフィラデルフィア、ワシントンに首都機能を渡したのちも都市として機能を有し続けていた。
現在世界最古の野球が行われたとされる場所がブルックリンと推定されているようにシティスポーツとして発展していった野球はやはり人口の大きな場所で育つ。
事実エリー運河の登場とともに多くの移民が入り、人種のサラダボウルとなっていく様をフランスは自由の象徴とみなして自由の女神像を送っている。それが様々な問題を生むことになるのは別にしてもこれが現在のニューヨークにおける大きな礎になったのは間違いない。

その中で1882年にポログラウンズが生まれた。
ただし現在の想像する場所にポロ・グラウンズがあったわけではない。セントラル・パーク北東部110番通にあった場所に利用許可を受けて使われ始めたのがきっかけだ。
調べてみるとポロ・グラウウンズという名前は当時の間での通称でこの場所そのものに名前らしいものはなかったという。現在もセントラル・パークから110番通りを挟んで向かい側にあるが、そこはもう建物が多く立ち並んでおり、過去が原っぱであったという姿は目撃されない。
恐らくポロ・グラウンズを知っている人にはポロ・グラウンズでポロを行われたことない、というのは誰もが知るところであろうがそもそも「ポロが出来るくらいの空き地」というイメージで人々が話していたようなものに近かったのであろう。新聞などもその場所の通称としてポロ・グラウンズと呼んでいたというところから名前が残ったというほうが正しい。
1880年にはアメリカン・アソシエーションに加入したニューヨーク・メトロポリタンズが既に使用している辺りこの土地と野球はすでに近しいものであったと言える。
そのメトロポリタンズの買収者である煙草業で財を成したジョン・B・デイとジム・マトリーによって他球団を買い取っておいたのがニューヨーク・ゴッサムズ。のちのジャイアンツとなっていく。アメリカン・アソシエーションにメトロポリタンズ、ナショナルリーグにゴッサムズの二巨頭体制が建てられていく。

ナショナルリーグとアメリカンアソシエーションという二つのリーグにチームを持っていたがゴッサムズに注力していくと同時にメッツは1887年に解散。参加していたアメリカン・アソシエーションが1891年に解散しているところを見るに興業でかなり苦しんでいる。この間にもプレイヤーズリーグなど生まれては立ち消えている。ナショナル・リーグだけがなんとか生き残ったという構図の方が正しい。
ポロ・グラウンズはニューヨーク・ジャイアンツのものとして歴史を踏んでいくものとなる。

しかしセントラル・パークとなりの場所というのは土地として決して安い場所ではない。ニューヨーク市の区画整理の際にこのポロ・グラウンズも選ばれ立ち退きを要求されてしまう。
その後155番通りに農地として残っていた場所を買収して作られたのがポロ・グラウンズであった。しかしもう過去のようにポロ専用という場所でもなく野球を中心としたボールパーク区画として整備されたこともあって正式名称をマンハッタン・フィールドとしている。
最初のポロ・グラウンズが通称であったように新たに作られたマンハッタン・フィールドもやはりポロ・グラウンズと呼ばれていく。
つまりポロ・グラウンズは誰もがなんとなくポロやる場所、と言っていた通称を最後まで使い続けていた。
マンハッタン・フィールドという「マンハッタン」の名前を冠した球場の名前が過去のものになり、誰かが呼び、多くがその場所を差したポロ・グラウンズだけが生き残っていったことになる。
そこに妙なニューヨーカーたちの連なりを覚えずにはいられない。

3,市民が付けた名前と共に

ポロ・グラウンズが最後に使われた形になるまでに四度の変遷をしたのは有名な話だが、マンハッタン・フィールドからブラザーフット・パークがポログラウンズになっていく経緯は面白い。
選手の給料面への不満からモンテ・ウォードを中心に区画したプレイヤーズリーグが生まれた際、すでにジャイアンツを名乗っていたゴッサムズから選手が離脱し「我こそが正しきジャイアンツ」と言わんばかりにニューヨーク・ジャイアンツが生まれた。
つまりナショナルリーグとプレイヤーズリーグに同じ「ニューヨーク・ジャイアンツ」があったと言える。要するに選手側の「待遇面をよくしなければあっちのジャイアンツに入る」というストライキ的な行為でもあった。
その時にマンハッタン・フィールドの横に生まれたのがブラザーフット・パークであった。クーガンの農地、という名前のあった同じ土地に二つの球団が二つの土地を使ってリーグ違いの試合をしていたという事だ。
なのでクーガン農地でも高いところに登るとふたつの野球の試合が観れる状況でもあった。クーカン・ブラフヒルトップといえば野球を無料で観られる場所という代名詞がついていくことになるのだがそれが始まったのはブラザーフット・パークからだ。

しかし経営状況がどうにもならないプレイヤーズリーグ側のジャイアンツは一年で解散。その選手の多くがまたジャイアンツに戻るといったなんともコメントしにくい展開で終わってしまう。1890年はジャイアンツも低迷してしまう時期があるのだがそれはここにおけるオーナーと選手の軋轢も関係しているだろう。
オーナーと選手の関係というのはこの時期から問題で、こじれにこじれていき最終的に現在の形になり、それもまた年俸高騰の問題なども持つためこの苦しむ関係が19世紀からずっと続いているのは皮肉なものである。

プレイヤーズリーグのジャイアンツが崩壊後、こともあろうにジャイアンツは開いたブラザーフット・パークをそのまま本拠地として扱っていくことになる。
恐らくニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドがポロ・グラウンズの名前が付いたのがこの頃だ。プレイヤーズリーグのジャイアンツはマンハッタン・フィールドを「ポロ・グラウンズ」と呼び、ブラザーフット・パークをニューヨーク・ジャイアンツが扱い始めてからブラザーフット・パークはポロ・グラウンズと呼ばれ、過去使っていた球場の名をマンハッタン・フィールドに明け渡している。

クーガン・ブラフに本拠地を置くジャイアンツの本拠地こそ「ポロ・グラウンズ」であり、同じ場所で他球団が使ってもそれは「ポロ・グラウンズ」ではない。
ここにニューヨークにおけるジャイアンツとポロ・グラウンズの立ち位置が完成した。
「ナショナル・リーグのニューヨーク・ジャイアンツが本拠地とするクーガン・ブラフこそポロ・グラウンズ」
なのだ。それはもうマンハッタン・フィールドであろうがブラザーフット・パークであろうが関係ない。ジャイアンツの使う球場こそポロ・グラウンズとしてなった瞬間でもあったのだ。

4、ポロ・グラウンズ誕生

ブラザーフット・パークを本拠地にしていた1911年に火災があり全焼。
そして二か月の急造で鉄筋コンクリートを使った球場が完成。
それこそが我々の知る、ポロ・グラウンズである。
英語圏であると最後のポロ・グラウンズをpolo groundsⅣと書くがそれはこの曲折を得てのものである。現在のヤンキースタジアムがyankee studiumⅡと書かれるところと一緒だ。
この突貫により生まれた球場は当初オーナーの名前を持ってブラッシュ・スタジアムと名付けられたが定着していない。ここにもポロ・グラウンズがニューヨーカーにとってどういうものであったかを想像するにたやすい部分が残っている。

この火事と共に失ったものが一つある。
それは外野のオープンフィールドだ。

1900年代はホームランが少ないと言われるが、その多くがボールの質、と言われているが実際はそれだけではない。元々野球はどこでも行えるものであったがゆえに現在のような外野を設けていなかったのだ。
ロープを張ってここまでを外野という形をとるため、極端に広い球場が生まれる。そのロープの先に多くの観客が訪れて野球を観戦するのが野球のスタイルなのだ。そこまで飛ばせるような選手が限られ、観客もまたボール一つでダイヤモンドを走る選手たちを観に来ているのだからホームランを必要としていなかった部分がある。
デトロイト・タイガースの1900年代を象徴する選手がタイ・カッブとサム・クロフォードであったのは彼らが打てるだけでなく走りまわれるのもあった。打撃で塁をかけ、時に激しいクロスプレーを鑑賞する姿は現在の野球というよりはアメフトの観方に近い。そこに旧来の日曜日では嫌われていた飲酒も発生することもあって、中々に野蛮なスポーツであった。
ベーブ・ルースとホームランが野球を変えてしまった、という言説をきいたことはあるだろうが、元々こういうスポーツであった野球に激しい選手のぶつかり合い以外の魅力を作ったところにも彼がキングオブベースボールと呼ばれる一端があるのだ。

このオープンフィールドには貴族などが馬車を止めて観戦したと言われる。
メジャーリーグというのは原則的に同じ都市に二球団以上あると応援するチームによってカラーが出ると言われる。例えばシカゴであればホワイトソックスを応援する派閥は大抵がホワイトカラーで、カブスはブルーカラーを基調に、現在のニューヨークではホワイトカラーがヤンキースを愛し、ブルーカラーがメッツを愛すると言われる具合だ。ヤンキースファンとメッツファンは仲が悪いとよく言われるがそういった背景もある。企業で言えば本部派閥が愛するのがヤンキースで現場派閥が愛するのがメッツという具合だ。仲良くなれるわけがない。
この時点でジャイアンツはホワイトカラーの愛するチームとなっていた。ブルーカラーは専らブルーカラーが多く住むブルックリンに本拠地を置くドジャースを応援していたし、ベーブ・ルース獲得前のヤンキース、いわゆるハイランダース前後のヤンキースは「ニューヨークにもアメリカンリーグのチームを置きたい」という理由も含めて二球団の派閥の陰にこっそりと「いさせてもらっている身分」であったりと、ニューヨークの構図がはっきり見える状態になっていた。

そのオープンフィールドを1910年代に撤去。外野を作っている。
これに伴い、本来のポロ・グラウンズの名を模したポロも出来る球場としてポロ・グラウンズが完成。バスタブと言われたあのいびつな球場が生まれたのだ。

ニューヨーカーにとってジャイアンツと鉄筋コンクリートによってつくられたポロ・グラウンズがニューヨークの象徴となった瞬間でもあった。

5,ニューヨーカーの象徴の終焉、そして

そしてジャイアンツとポロ・グラウンズがマンハッタンの象徴として永遠に君臨、するはずであった。しかしそれを阻む存在が表れてしまった。
それこそマンハッタンとブルックリンの二大巨頭のあったニューヨークに「いさせてやった」球団、ヤンキースに1919年、ボストン・レッドソックスから一人の男が金銭でトレードされてからであった。
男は過去ボストンでエースピッチャーとして投げていたがどうしても同リーグのウォルター・ジョンソンの後塵を拝すような存在の、永遠の二番手的な投手であった。もし彼が投手のまま選手生命を終えていたら現在ヤンキースがあったかは分からない。もしかしたらミルウォーキー辺りでチームを構えていた可能性すらある。そしてマンハッタンとブルックリンに拠点を構える二球団が西海岸に行くこともなかったかもしれない。

損な球団事情どころかアメリカにおける野球の観念さえ変えてしまった男がやってきた。しかもニューヨークに来てからは投手ではなく野手をするという。
オープンフィールドがなくなり、鉄筋コンクリートで外野の定義がポロ・グラウンズのみならず多くの球場で出来上がってきた、ボールパークが原っぱの一角を使ったというニュアンスから野球場というニュアンスに代わり始めた時代に表れた巨漢こそ、ベーブ・ルースであった。ベーブ・ルースのホームランは球場の鉄筋化とそれに伴うホームランゾーンの完成もかなり大きな意味を持つ。1920年代から近代ベースボールが始まったと言われるゆえんがこの辺りにある。事実ルースはレッドソックスがグローブ・フィールドを使っている時はホームランをあまり打てていない。彼が本格的に本塁打を打ち始めたのは1917年、チームが完全にフェンウェイ・パークに移籍してからだ。
ロープで作っていた、ある意味外野の概念があやふやだった時代が終焉したと同時にホームランという概念が生まれるきっかけを作った。
そのためライブボールになったからルースがホームランを打てた、では片手落ちだ。球場の変化もまたルースに味方したのだ。

1920年、ルースはホームランを打ちまくった。54本塁打という記録は今まで20本も行けば驚愕の数字であった野球の概念を変えた。二位の19本を放ったジョージ・シスラーすら遠くに追いやるホームランに多くのニューヨーカーがポロ・グラウンズに駆けつけた。
メジャー史上初の観客動員数100万人を超え、ニューヨークはルースの虜になってしまった。よりによってポロ・グラウンズで。
ニューヨーカーにとってポロ・グラウンズとはジャイアンツの本拠地である。それはマンハッタン・フィールドからブラザーフット・パークに異動した時にポロ・グラウンズの名前を持ってきて、過去ポロ・グラウンズの名をつけたマンハッタン・フィールドに名前を戻したように。
オーナーの名前をつけたブラッシュ・スタジアムもポロ・グラウンズという名前の前に消えた。

ジャイアンツとポロ・グラウンズはいわば共同体であった。
それがヤンキースとルースのホームランによって踏みにじられたのだ。
我々のポロ・グラウンズを借りている身分がよくもまあ乗っ取りのようなことをやってくれる。
それをどこからやってきたか分からないポッとでの若者と、ニューヨークに居させてやった身分のチームに彩られてはたまったものではない。

当時監督でありオーナーであったジョン・マグローが承服するわけがない。そうでなくても苛烈な性格を持った男である。
だからこそマグロ―はヤンキースに1921年以降のホームグラウンドとしての使用を禁じた。それによってブロンクスにヤンキースタジアムが生まれて狂乱の20年代と共にヤンキースがニューヨークの象徴となっていくのだがそれはまた別の話だ。

その後もジャイアンツは強かった。マグロ―政権化では何度もヤンキースとぶつかっている。しかし1930年にもなるとマグロ―の高齢化と主軸のフランキー・フリッシュとの衝突、トレードでやってきたロジャース・ホーンズビーのチーム内不和などもあって一時低迷。1934年にマグロ―も死去する。
その後、ビル・テリーが監督になりメル・オットー、カール・ハッベルなどといった選手で黄金期を迎えるが、もはやかつての輝きはこのチームに残されていなかった。
段々とヤンキースにその輝きを奪われていくことになる。

6,それでもマンハッタンにとってジャイアンツは

1959年、ジャイアンツは同じニューヨークに在住するチームドジャースのオーナーにしてダースベイダーに匹敵する悪の親玉、ウォルター・オマリーの誘いを受けて西海岸移転という、ニューヨーカーにとってはダークサイドへ行ってしまう事を経験してしまう。
勿論1950年代にはまだジャイアンツの存在感は大きかったがそれ以上にワールドシリーズ五連覇を達成したヤンキースが強かった。強すぎた。ヨギ・ベラ、ミッキー・マントルらが打撃を担うヤンキースにジャイアンツはウィリー・メイズのみ。応援層にブルーカラーが中心だったドジャースと戦うのがヤンキースだったためにホワイトカラーも自然とヤンキースに集まってしまい、観客も減少。
居させてもらった球団に敗北して居させてもらう立場になってきたころへの勧誘でもあった。応援層のカラーでみてしまうとウォルター・オマリーがなぜ西海岸に本拠地を置きたかったのかも見えてきそうだ。ジャイアンツはもはやブルーカラーが行っていい場所でもないし、ブルーカラーの多いブルックリンはどうしても治安が悪い。ホワイトカラーを相手にする方が確実に治安は回復する。
居られなくなった球団と新たな道を模索する球団。かつてニューヨークを支えたチームらはその地をあとにしてしまった。

91年目のSay heyという昔書いたものでも書いたが、ジャイアンツの移転にはやはり昔ながらのホワイトカラーは反対している。その中にのちのメッツオーナーになるペイソン家もいる事を考えるに賛否が入り混じったのは間違いない。
アメリカを支える、ニューヨーク・オブ・ニューヨークの摩天楼にあった球団がなくなる。それはマンハッタンに住む上流階級には耐えられない仕打ちでもあったのだ。たとえ多くがヤンキースに流れたとしてもニューヨークの中心はマンハッタンであるし、マンハッタンの球団といえば「ジャイアンツ」であり彼らが鎮座するのは「ポロ・グラウンズ」であったのだ。

メッツに現役最晩年のウィリー・メイズを持ってきたのもやはりそれはジャイアンツ復興が忘れられない実業家たちの悲願であった。そう考えると彼らがジョン・B・デイ、ジム・マトリーの買収した最初の球団であるメトロポリタンズの名をメッツに与えたのは感慨深いものがある。
もう一度ジャイアンツを復活させようという意思があったのだ。それはニューヨーク・ジャイアンツという「ニューヨーカーの象徴として」の存在である。だからこそメトロポリタンズはニューヨーク・ジャイアンツ最後の英雄であるメイズを欲しがったのだ。
そのチームがジャイアンツの方向ではなく、ライバルにしてジャイアンツを西海岸に至らしめたダークサイドたるドジャースの色に応援層も含めて近づいていくのはなんとも皮肉ではあるが。

そして1964年、シェイスタジアムの完成と共にポロ・グラウンズは取り壊された。
そして、シェイスタジアムにポロ・グラウンズの名前は引き継がれる事は、なかった。
一つの時代は終わり、新しい時代が始まった。

7,マンハッタンのプライド、それはジャイアンツとポロ・グラウンズ

ポロ・グラウンズを考える時、なぜポロ・グラウンズという名前を模しながらポロをした記録がないのか、またなぜあれほどいびつな球場を本拠地とし続けたのか、という疑問はポロ・グラウンズを知る誰にもあるだろう。
しかし、歴史的事実を追えばそこにはマンハッタンに住む多くの人々の記憶がまざまざと刻まれていることが分かった。
マンハッタンに住む人々にとってジャイアンツとはまさに世界一の球団であった。彼らにとって世界一の球団はヤンキースでもなければドジャースでもない。マンハッタンはクーガン・ブラフに本拠地を置くジャイアンツであった。
そしてそのジャイアンツの本拠地は他ならぬポロ・グラウンズであった。それはポロをやられていたかが問題ではない。彼らがポロ・グラウンズとマンハッタンに住む人々に呼ばれた原っぱだからだ。ポロを行われていたかが大切なのではない。ジャイアンツが市民に呼ばれていた土地でプレーを始めたから球場を変えても「ジャイアンツといえばポロ・グラウンズ」となったのだ。
そこには「ジャイアンツは俺たちマンハッタンの地で育った」というプライドがある。ジャイアンツを愛することはすなわちマンハッタンを愛することと同義であったのだ。

「ルースの建てた家」がヤンキースタジアムであるように。
「ドジャース永遠のホームグラウンド」がドジャースタジアムであるように。

「マンハッタンの球団はポロ・グラウンズの球場でなければならない」
「それは俺たちの愛した土地にいたジャイアンツは俺たちの呼んだ場所で野球をはじめ、多くの栄光をもたらしたから」
「ジャイアンツとポロ・グラウンズは一緒の土地でなければならない」

ニューヨーク・ジャイアンツとポロ・グラウンズの歴史を紐解くと慕情にも似た強い気持ちが散見される。シェイ・スタジアムがシチ・フィールドに代わっていく際、ポロ・グラウンズを再現されず江ベッツ・フィールドの再現に行ったのは決して球場のいびつさだけではないだろう。
「ポロ・グラウンズはマンハッタンの歴史」であるのだ。アメリカの経済を支えた摩天楼にあるバスタブのような球場こそマンハッタンの誇りであったのだ。
ニューヨーク・ジャイアンツ、そしてポロ・グラウンズの栄光はマンハッタンの栄光でもあったのだ。そしてそれはヤンキースに奪われたものであるとしても、まぎれもなく過去ニューヨークの栄光でもあった。
だからこそ、マンハッタンの人々はジャイアンツを引き留め、もう一度その歴史を起こそうとメッツを生んだ。しかしメッツはジャイアンツになれなかった。
そしてニューヨーク・ジャイアンツはサンフランシスコに渡り、ポロ・グラウンズの名を捨て違う歴史を歩み、ニューヨーク・メトロポリタンズはマンハッタンの人々が想像する形とは違った歴史を歩むことになる。歴史の面白いところだ。

ポロ・グラウンズはもう二度と復活しないだろう。
しかし、マンハッタンがアメリカの栄光である限り彼らの輝きは永遠に記録として残り続ける。
それはジャイアンツとポロ・グラウンズが間違いなくマンハッタンの誇りであったことを記す過去から未来へ送られた手紙でもあるのだ。

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