さらばホワイティボール

ハーゾグ元監督が92歳で死去 カージナルスを82年世界一、野球殿堂入り(産経新聞)

セントルイスの象徴が一人去ってしまった。

The National Baseball Hall of Fame and Museum remembers Whitey Herzog.

日本でホワイティ・ハーゾクと聞いてピンとくる人はさほど多くないだろう。それこそメジャーリーグでも90年代より前は印象を持っている人のほうが少ない時代だ。
そんな彼でもオジー・スミスのいたセントルイス・カージナルスを率いた監督、と言われたらピンとくる人もいるだろう。彼を中心とした守備と走塁を中心とした走るチーム像はブッシュスタジアムの人工芝と共にシャープなチームの肖像であった。
70年代のファミリーと言われるような強烈な打線を模したピッツバーグやビッグレッドマシーンと言わしめたシンシナティのような強打が売りのチームではなく走って点を稼ぐ、というホワイティボールはまさに驚きと共に迎え入れられたのだ。

そんな彼は現役時代412本しか安打を放っていない。1956年にワシントン・セネタースでセンターを取ってから以降は人生の多くを控えで過ごしている。
どちらかといえば守備の人でその守備率は8シーズン活躍して.982。エラーは15という堅守の選手であった。バッティングも決して悪いものではなかったがトレード先のアスレチックスでは若きロジャー・マリスやタイガースのアル・ケーラインに阻まれ続け、唯一スタメンと言ってもいいボルティモア時代でも100試合出場は61年のみの、いわゆるスタメン候補枠であり暫定スタメンのような存在であった。
特に守備よりは打撃を求められるアメリカの外野陣において打撃が優秀でない選手は淘汰されがちだ。ホワイティ・ハーゾグもまたその中の一人であったと言えよう。

そんな彼が1963年に引退後マイナーでのコーチなどを経由して1973年テキサス・レンジャーズの監督に就任。しかしこの当時のテキサスにはエース不在で頼れる選手は翌74年に打点王を獲得するジェフ・バロウズくらいのもの。
投手陣の崩壊を食止められずレンジャーズは106敗という数字をたたき出して最下位。
シーズン終了前に更迭されるという悲劇を得ている。

しかし74年エンゼルスの臨時監督を務めた後翌75年カンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。前年五位だったチームを二位に引き上げる事に成功する。
73年壊滅的だった成績が急に変わったのは何故か。
ここで選手の成績を見てみると意外と面白い結論が出てくる。73年のレンジャーズのチーム盗塁数は93。走力に重きを置いていないチームである事がこれだけでもわかる。それに対しハーゾグが監督をする前の74年ロイヤルズは146。スタメンの多くが盗塁をする傾向にある。
ショートのフレディ・パテック(通算385盗塁)を中心にセンターのエイモス・オーティス(通算341盗塁)、ジム・ウォルフォード(89盗塁)と多い。
そして打線にもジョン・メイベリーのようなホームランを狙える打者と70年代ロイヤルズを代表する選手、ジョージ・ブレッドのような安打製造機がチームを固めていた。
投手こそエースをデニス・レオナルドに固定こそしたものの不安定ではあったが「チームの足で勝っていく」思想はこの辺りではっきりとビジョン化できたのではないかと想像できる。事実ロイヤルズはここから黄金期を作る事になる。
79年にはロイヤルズを退団してしまうが、パテックが段々と衰えていくのに対し、レフトにウィリー・ウィルソン(通算668盗塁)やセカンドにフランク・ホワイト(通算178盗塁)を補強している辺りこの時点で「足を使って勝つ」思想がしっかりと出来上がっており、のちに語られるホワイティ・ボールの原型が生まれている。

少し深く追求してみると面白いのだがbaseball almanacで当時の選手の給料が出ているのだが1979年のチーム最高年俸が打者として優秀なジョージ・ブレッド( $140,000.00)ではなく走塁の要であるフレディ・パテック($200,000.00)であるのに驚く。(https://www.baseball-almanac.com/teamstats/roster.php?y=1979&t=KCA)この時点でロイヤルズがどういう選手にウエイトを置いていたのかを想像するに察しやすい。
またこの時まだ若手の一人であったウィリー・ウィルソンが80年代後半にはビリオンダラープレイヤーになっていることからもロイヤルズの経営価値観が見えて面白いものだ。

余剰ではあるがサモアの怪人、トニー・ソレイタもまたホワイティ・ハーゾグの指揮下にいた選手であることを付記しておく。

1980年にケン・ボイヤーのマネージメント失敗から今度はセントルイス・カージナルスで指揮を行う。8月26日付でGMになっており、そこからレッド・ショーエンディーストと一緒に監督をしているので恐らくハーゾグの政権を固めるために併用監督としたのだろう。事実翌年81年からハーゾグはGM兼任監督として立ち回っている。ショーエンディーストも翌年コーチとして参加しているのでハーゾグのよい腹心であったのだろう。

1980年のカージナルスはかなりバランスのいいチームであった。
バッティングには通算1980安打、267本塁打、1111打点のDHジョージ・ヘンドリクス、2182安打、426二塁打のファーストキース・ヘルナンデス、2472安打、248本、1389打点の捕手テッド・シモンズといった打撃の布陣。
三塁打王三回、盗塁王一回のゲイリー・テンプルトン。トニー・スコットやボビー・ボンズなど野球慣れした中堅、ベテランもいる。
若い力として後々力をつけてくるトム・ハーもいる。
投手ものちにサイ・ヤング賞を受賞するピート・ブコビッチ、通算168勝するボブ・フォッシュなど先発は力もあった。しかし一方で中継ぎは40を過ぎたジム・カートが投げているような状態でそこが課題でもあった。

しかし翌年81年、ストライキによる中断こそあったものの2位。この時にのちの主体となっていくトム・ハーをセカンドのスタメン、またウィリー・マギーをセンターに起用。
そして翌年、シスクト・レスカーノ(元大洋)やゲイリー・テンプルトンなどの大量トレードでサンディエゴ・パドレスからオジー・スミスを獲得。
ここに後々ホワイティ・ボールと呼ばれる柱の選手たちが揃い始めた。

ここ以外にもやはりハーゾグは走塁によるチームの勝利を目指していたのか三角トレードで通算370盗塁するルーニー・スミスを獲得するなど精力的であったりする。それこそ70年代までのセントルイスのイメージがどんどんと変わっていく瞬間でもあった。
そしてこの年のドラフト10番指名にビンス・コールマンを獲得。着々とチームカラーが整い始めていた。

そしてこの年カージナルスはワールドシリーズを制覇。
トム・ハーを先頭打者として起用し、二番にルーニー・スミス、三番にキース・ヘルナンデス、四番にジョージ・ヘンドリクス、五番に強打のキャッチャー、ダリル・ポーターを添える布陣で勝ち続けた。
一、二番でチームをかき乱し、ヘルナンデスやヘンドリクスでしっかり点を稼ぎ、取りこぼしをポーターで返す、という戦略思想が浮かび上がってくる。
また、メジャーでは珍しくスタメンがバントをしている。
やはりドジャースの影響かナ・リーグ自体がバントが多く、そのうちカンパネラベースボールの本流であるドジャースはメジャーでも珍しいほどの106犠打をしているのだが、87と負けず劣らず犠打を敢行している。
そのドジャースが西地区で二位となり、西地区一位のアトランタ・ブレーブスに地区決定戦で3-0で勝っているのだからいかに当時のカージナルスが強かったのかが分かるだろう。
この後ワールドシリーズではミルウォーキー・ブレーブスと戦って4-3で勝利している。

ただこの後少しチームが弱体化する。
83年にはチームの柱であったキース・ヘルナンデスをトレード、84年には支柱であったジョージ・ヘンドリクスの衰えによる打力不足などでとにかく得点力不足に悩むことになった。
盗塁数はルーニー・スミス、セシル・マギーを中心に増える一方ではあるが、その最後を決められる選手がいないまま、いたずらに塁を盗むだけの時期が続く。後年多くの人がホワイティ・ボールの弱点を指摘するがまさにこの得点力不足であり、現在でも走塁を基調としたチームを作るときは決定打になる打者をいかに呼べるかがカギとなっている。

その得点力として呼んだのがサンフランシスコ・ジャイアンツで中核を担っていたジャック・クラークであった。前年84年成績を落とした彼をトレードで呼び寄せ、ファーストに添えている。
それによって走塁によって荒らしまわったところをクラークが打つ、という構図が誕生。またこの頃からオジー・スミスが打者として台頭。トム・ハー
、オジー・スミス、ウィリー・マギーというセンターラインが構築されたのであった。
この辺りこそ我々の想像するホワイティ・ボールであろう。
この年にナ・リーグ制覇、1987年にもナ・リーグ制覇し、ホワイティ・ボールという名前を世界に広めたのであった。

しかし残酷なものでジャック・クラークがフリーエージェントしてしまうと得点力を失ったチームは瓦解。ボブ・ホーナー(元ヤクルト)で穴を埋めようとするが怪我が原因でほとんどその穴を埋められず。
トム・ハーをトレードしてまでミネソタ・ツインズからトム・ブレナンスキーを取るものの決定打に至らず、その結果五位。
翌年はぺドロ・ゲレーロを取るも今度は得意の盗塁が弱くなり、しかもこの年はセンターの要であったウィリー・マギーが不調。トム・ハーもいなくなり根底が崩壊してしまったチームは3位にこそなるものの90年には最下位に。
そのウィリー・マギーも90年にはトレード。ハーゾグもシーズン途中で更迭されてしまった。
このようにしてホワイティボールも終焉を迎え、セントルイスもまた弱くなっていく、ように思えたがかつてライバルであったジョー・トーレが引き継いでいくのだがそれはまた別の話。

彼の人生を追いかけた時、改めて私は野球の可能性を感じる瞬間がある。
特に現在は「ホームランこそが野球で最も価値のあるプレー」と言われてしまうような時代に来てしまった。得点力がある事が試合を決定するのだからそれ自体は間違っていない。
とはいえ、そればかりを持て囃す風潮がはびこっているのも事実だ。
本来の持ち味を殺してでもホームランを狙う姿勢というのはいささか反応に困る。あったほうがいいものなのか、なくてはならないものなのか。これらを思考することを放棄しているようにさえ見えるのだ。

そしてホワイティ・ハーゾグも決して恵まれた監督生活ではなかった。
打力の強い打者を取るにはどうして金がかかる。それに対して少し安めになる走塁上手やリーグでは割と中位くらいの長距離打者の多くをトレードで取りながら、言い方悪くすれば帳尻を合わせながらチームを構成し、あのようなチームを作っていったのである。
潤沢なチーム資本でチームを作っていった監督なのではないのだ。
スペシャリストだらけでも歯車が整えば強くなれる。たとえその力が継続的ではないにせよ数ある強豪を驚かせるほどのパワーを出すことができることをハーゾグは証明したのである。

過去私の大学院の先輩はこう言っていた。
「今の時世だからこそハーゾグのホワイティボールがみたくないか。これほど定型パターンがつくられて、そうやって作るのがさも当然と叫んでいる時代だからこそ、職人で構成された、お世辞にも金持ちとはいえない、アメリカでも田舎に属するチームがバッタバッタと金と名声をモノに言わせたチームを倒していく姿を見たくないか」
ホワイティ・ハーゾグの名を見る度にその言葉を思い出す。

そんな職人の本気を思い出してくれるハーゾグが天国へ旅立ってしまったのは、少し寂しい。

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