さらばキューバン・トルネード
ルイス・ティアントがあのトルネード投法を始めたのはボストンに入ってからだという。それよりも前のクリーブランド・インディアンズ(現ガーディアンズ)では特徴的な投法ではない剛球投手だったわけだ。
トルネード投法、と言われて日本では最初に野茂英雄を想像するだろう。
しかしアメリカは必ずしもそうではない。なぜなら過去トルネード投法を行っていた投手はいるからだ。
現役であればジョニー・クエト(現ロサンゼルス・エンゼルス)を思い出すだろう。言い伝えを参考にすればサイクロンの名を持ったサイ・ヤングも背中を向けた投法であったからそのサイクロンの二つ名を得たという伝承もある。
しかしメジャーの歴史に知識がある人は多くが1975年、シンシナティ・レッズのワールドシリーズでエースとして投げていたルイス・ティアントではないだろうか。
背中をちらりと見せて投げ込む彼の姿を多くの人が思い出すだろう。
そんなルイス・ティアントは父、ルイス・ティアント・シニアの息子であった。ルイス・ティアント・シニアはニューヨーク・キューバンズで107勝挙げた投手。ニグロリーグの記録もメジャーリーグの記録としてカウントされる現在では親子そろって100勝以上達成した投手になる。
事実ティアント自体も子供の頃からキューバのリトルリーグですでに頭角を出していたところからティアントの非凡な才能が見受けられる。
そんな彼をメジャーに挙げたのはクリープランド・インディアンズであった。インディアンズはその名が示す通り元々ルイス・ティアントがあのトルネード投法を始めたのはボストンに入ってからだという。それよりも前のクリーブランド・インディアンズ(現ガーディアンズ)では特徴的な投法ではない剛球投手だったわけだ。
クリープランド・インディアンズは948年にサチェル・ペイジを入団させたり、ティアントがメジャーに上がる1964年にパナマ出身のチコ・サルモンを使い始めたりと国際色が豊かになりつつあった。
それこそ1950年代にはつい先日亡くなられたオジー・ヴィダール・シニアのいたドミニカ共和国、ロベルト・クレメンテのいたプエルトリコといったいわゆるアメリカ白人から黒人の時代を超えてアメリカの周辺国へ、という時代に突入した頃だ。
二グロリーグの繋がりからそこそこアメリカに来ていたキューバの選手であったがちょうどトム・オリヴァーやトニー・ぺレズといったメジャーリーグを代表するような選手が大量に出てきた時代でもある。
メジャーリーグがワールドリーグの様相を本格的に呈してきた頃にティアント自身もアメリカに渡ってきたのだ。
その時1961年。
ここであえて年を書いたのには歴史に少しでも敏い人ならピンと来るであろう。
1962年、アメリカとキューバで何が起きたか。これが多くのキューバ人を狂わせることになる。
特に野球ではその影響が強い。例えば日本では出稼ぎに来ていたチコこと阪急のロベルト・バルボンがキューバ危機により帰られなくなり、遠くイタリアではイタリア野球を急成長させるために呼ぼうとしたキューバ人が呼び込めなくなり、中々日の当たらない場所に定住するきっかけになってしまう。
そしてルイス・ティアントもまたその一人であった。
事実2009年まで故郷の土を踏むことができないままであった。
彼もまた歴史の被害者であったのだ。
そんなティアントがメジャーの地に上がったのが1964年。
その年の3Aポートランドで17試合登板中15先発中、うち13完投している15勝している彼にマイナーでの居場所はなかった。
1964年8月19日、彼はメジャーの土を踏んでいる。相手はあのニューヨーク・ヤンキース。先発はなんとホワイティ・フォード。
打線にはミッキー・マントルはいないながらもロジャー・クレメンス、ロッテオリオンズが送ってもらえると思い込んでいたヘクター・ロペス(実際はアルト・ロペスが来日)、ヤクルトスワローズに来て大騒ぎを起こしたジョー・ペピトーン、太平洋クラブライオンズに来たはいいものの怪我でそうそうにアメリカに帰ってしまったクリート・ボイヤーと日本人には苦い思い出のある選手が並ぶ。
そのヤンキースに完封して初勝利をもぎ取っている。ヤンキースのヒットはわずかにして四本、キューバの至宝がこれ以上なく輝いた瞬間であった。
その年10勝4敗でシーズンを終了。19試合登板にして16試合先発というところからもその期待値とそれに答えたことが分かる。
同僚のある左腕などはどれだけ力の差を思い知らされていただろうか。彼もまたホワイトソックスやドジャースを得て200勝となり、それ以上に投手にとって外すことのできない手術を行った第一人者として執刀医のフランク・ジョーブと共に野球史の石碑に名前を刻まれていくのだがそれはまた別の話。
ティアントはサム・マクドウェルと共にエースとして投げていくのだが1966年に先発、中継ぎ両方をさせられるスイングマンをさせられたりしており、よく言えば投手陣の柱、悪く言えば使い捨ての感覚でかなり投げさせられている。
1968年、21勝に歴代シーズン防御率2位の1.60をたたき出すなど活躍する一方やはり腕は限界を迎えてしまう。1969年には9勝20敗と最多敗戦をしてしまい翌年トレードに出されてしまう。
64年から移籍するまでの69年で出した成績は75勝64敗、防御率2.84、完封12という結果を見ればどれだけ活躍し、一方で酷使されたかもわかるだろう。
実際1970年、トレード先のミネソタ・ツインズではほとんど活躍できていない。
当時のクリーブランドは非常に弱いことが知られているがこういったトレードもかなりその影響が読み取れる。使えないと思った選手はかなりの確率でトレードに出し、新天地で活躍されるパターンも多い。事実トミー・ジョンもそうであり、ティアントもカムバックされる。ティアントとのトレード相手であったグレイグ・ネットルスもこの後トレードで向かったニューヨークヤンキースで本塁打王を取るような活躍をする。
確かにティアントとのトレードは過去ドジャースで中継ぎとして奮闘したボブ・ミラー、64年ロサンゼルス・エンゼルスのサイヤング賞投手ディーン・チャンスであったりするのだが、逸材をほどよく苦し、全盛期がすでに終わった選手を採る傾向がこの辺りには見られる。実際ここから90年代までチームが苦しむのはこういった選手のトレードなどからも見受けられる。
ティアントはミネソタで7勝3敗としているが、500万ドルの活躍が出来ているかと言われればコメントに困る。事実18試合登板で7月に肩甲骨骨折でそれ以後試合に投げていない。
今と違ってスポーツ医療や外科手術が発達していなかった当時では終わった選手として扱われるのは当然であった。事実1971年3月にリリースされている。アトランタ・ブレーブスとマイナー契約するがその年のうちにリリース。ボストンが雇っている。
ここからが彼の全盛期になるとは、恐らく本人も思っていなかったのではなかろうか。
1972年、彼は帰ってきた。
最初こそブルペンの一角であったが、段々と本格的に復帰、7月3日のツインズ戦で完投。8月には完全に先発の一角として収まっていた。先発に戻ってから12完投、6完封は流石としか言いようがない。その年防御率1.90という成績を残しカムバック賞を獲得した。
翌年73年は20勝13敗、74年は22勝13敗と大暴れ。エル・ティアントはレッドソックスのエースとなっていった。
あの背中を向けるトルネードはボークこそ取られたものの後に「ティアントの投げやすいフォーム」として黙認された。
そして1975年、強きレッドソックスの象徴の一人となっていたティアントはビル・リー、リック・ワイズらと共に勝ち星を重ね、ポストシーズンではア・リーグ決定戦でレジー・ジャクソン、サル・バンドーらのいるオークランド・アスレティックスに勝利、シンシナティ・レッズとワールドシリーズを争った。
シンシナティ・レッズとの一回戦、先発はティアントであった。
彼がこのチームのエースであることをそれだけでも示唆しているだろう。そこにアメリカ、キューバが粋な計らいをしていた。ティアントの家族をアメリカへの渡航を特別に許可したのだ。
ティアントは家族と14年ぶりに再会を果たすことになる。その初戦「ビッグ・レッド・マシーン」と言われた重量打線を完封している。この時ルイス・ティアント35歳。キューバ危機がなければ何度も観ることができた息子の活躍を家族は目の当たりにした。
このポストシーズンで3試合登板で2勝0敗。最終試合は勝ち負けが付かなかったが延長12回、カールトン・フィスクが12回裏、レフトポールに当てるサヨナラホームランを打ち最終戦にもつれ込ませた試合だ。
結果としてレッズに敗北してしまうのだが、最終戦までもつれ込ませたワールドシリーズでも名シリーズと言わせる戦いに多く爪痕を残している。
1978年フリーエージェントを行い、まさかのライバルチームニューヨークヤンキースに入団。
そこにはインディアンス時代、かつて目にもくれなかった投手トミー・ジョンと再会を果たす。またミネソタ時代にトレード相手であったグレイグ・ネットルス、75年の優勝を争ったレジー・ジャクソンがいた。
フリーエージェント制度によって選手を大量に集めたヤンキースが段々と悪の帝国と呼ばれ始めたころだ。
この頃のヤンキースは本当に多くの選手を採ったのが分かる。
上記の彼らだけでなくオークランド投手の柱であったキャットフィッシュ・ハンター、本格的に頭角を現し始めたピッツバーグのリッチ・ゴセージ、かつてミネソタのエースでティアントとも同僚であったジム・カート。
トレードでカンザスシティからやってきたルー・ピネラなどはあってもとにかくどこかで活躍した選手をかき集めていると揶揄された時期だ。ここからフリーエージェントという制度が血文字の文章を数多く添える直前でもあった。
しかし当時のヤンキースはぐだぐだのぐずぐずでもあった。
オーナーのジョージ・スタインブレナーとビリー・マーチンはケンカをして退任劇をしたと思ったらシーズン中に戻ってきたり、「俺はチームをかき混ぜるストローだ」とレジー・ジャクソンは歯に布着せぬ物言いをしたり、といったタイミングでリーダーであったキャッチャーのサーマン・マンソンが飛行機事故で急死。かろうじて強かったものの、ディマジオなどが作っていった名門ヤンキースの姿が弱くなっていくタイミングでもあった。
ブロンクス動物園(BRONX ZOO)と揶揄された時期にティアントの姿もあったのだ。
二度目のフリーエージェントでヤンキースを出た時には40。もうかつてのような力は残っていなかった。ピッツバーグと契約したもののその年にリリース、その後はメキシコが主体になっていく。
最初はエンゼルス傘下のタラスコで投げ、その年のうちにエンゼルスが雇ったもののシーズン終了と同時にリリース。翌年はメキシコリーグのメキシコシティ・レッズ(現レッドデビルズ)に在籍するが途中でリリースされユカタン・レオネスで投げていたもののそこで記録は途切れている。
1982年に引退したものとされているから半ばコーチングを期待されてのものかもしれない。またパンアメリカン出身という事もあってメキシコに呼ばれた可能性もある。いかにせよ1983年に選手として完全終了とした。
キューバとアメリカの野球を繋ぐ橋として彼はいた。
1997年にキューバ野球殿堂入りした背景にもそれがあるだろう。キューバ危機前に、亡命という形ではなくアメリカにわたりエースとして活躍した彼を誰が否定できようか。
それは2016年のタンパベイ・レイズとキューバ代表の親善試合に彼が登場したのにも読み取れる。彼はキューバにとってもアメリカにとっても英雄の一人なのだ。
その彼が今日亡くなられた。
キューバの生んだ至宝はアメリカとキューバの関係を見ながら、ボート一つで亡命してでもアメリカにやってくる選手たちを見ながら何を思うか。
それはもう分からない。
R.I.P El Tiant.