野球は文学のスポーツである
フェルナンド・バランズエラが亡くなる。63という現代社会にしてはあまりにも若い死だ、1981年のメジャーリーグに突如現れ話題をかっさらっていった男の早すぎる死は悲しいものだ。
そうでなくともピート・ローズ、ルイス・ティアントといった60年代後半にデビューして70年代を彩った選手たちが鬼籍に入る中、彼はあと10年存命でもおかしくなかった。世の中の終わりはいつもさみしい。
そんな中で元中日ドラゴンズの投手であった山本昌がこのようなコメントをXで出した。
バレンズエラ氏が亡くなりました。
— 山本昌 (@yamamoto34masa) October 23, 2024
1988年ベロビーチキャンプでバレンズエラ氏に
スクリューボールを教えて頂きましたが、全く投げれませんでした。
その後、試行錯誤して
マスター出来ましたが、
きっかけをくれたのは
バレンズエラ投手でした。
私の人生を変えてくれた方。
ご冥福をお祈りします。
前投稿の補足をします。
— 山本昌 (@yamamoto34masa) October 23, 2024
バレンズエラ氏から教えて頂いたスクリュー
は難しくて投げれませんでしたが練習は続けました。
2ヶ月後にメキシコ人内野手のスパグニョーロ選手に
教わったスクリューが
私のスクリューの原型に
なりましたが
習得しようとしたきっかけをくれたのがバレンズエラ氏でした。
改めてこういうのを見ると人の繋がりを実感する。
そして彼にスクリューを教えたジョセフ・スパグニョーロが確かにベロビーチにいたという記録が山本昌の話が真実であることを確信させる。
改めて我々は物語の中に生きているのだなと実感するのだ。
スポーツライティングを文学にした、と言われるのはかのスポーツライター山際淳司の「江夏の21球」からとされている。
現在でも当事者たちから多くの証言が出てきたり「自分で勝手に満塁にして自分でそれをフォローしていった」と笑いにされていたりもするが、やはりそれは山際が日本シリーズの一部を切り取り、文章として再構成した際にそれが物語足りえたからであろう。
取材不足にも関わらず想像だけで文章を書いてしまうライターも現れた始めたなどといった部分も踏まえると功罪がなきにしもあらず、だがここから多くのスポーツライティングが生まれていったことは確かだ。
多くの事象を物語として扱う時代に突入したのだ。
その山際は取材を緻密に行う。
江夏の21球も多くは結果だけで語られがちであるが、その本質は江夏の目に映ったブルペンでの若手、北別府学の投球練習であり、そこに江夏豊という投手としての矜持がいかに描かれたか、が主体であった。勝利にこだわるために早々に江夏を切り捨てる判断に至った古葉竹識の判断に抗う「孤独なエース」江夏豊という男の姿を浮き彫りにしたのだ。
一角を任された男として調子が悪かったからとへらへら笑いながら若手の後続に任せるなど許されない、それを選択させることは許されない、という矜持と信頼を勝ち取れていなかった怒りがあの結果を出した、と文章は綴っていた。
それは決して山際の主観ではなく、彼の取材から生み出された感想であった。
だからこそ現在も多くの映像媒体で江夏の21球を見る時、我々は江夏や古葉の心理を見ながら、そこから生まれたさらなる言葉の紡ぎだしによって野球には人が多く関わり、どのような思いでその場面にいたかを想像出来る。
そこに多くの人の物語があったのだ、と気付かされるのだ。
もはや日本でフェルナンド・バランズエラと言ってピンとくる人は少ないだろう。山本昌にスクリューを教えた、という言葉と、さも機動戦士ガンダムのギレン・ザビがごとく「バランズエラさんのためにもWS制覇しましょう」と人の死を利用しようとする言葉の題材程度にしか扱われないだろう。
しかし山本昌がフェルナンド・バランズエラに触れたのである。
「正しくはバランズエラのスクリューではない。無名の内野手から教わった」
と言い続けてきた山本昌が、だ。
そこには日本の伝説的な投手となった山本昌とフェルナンドマニアを生ませるほどの熱狂的なファンを作ったフェルナンド・バランズエラ。そしてその二人と繋がるのかすらイメージできない無名の選手三人の人生が交差したことが間違いなく証明されるのだ。
SNSの登場以降、言説というものは非常に無責任になった。
責任を取らなくていい立場の人間が、言いたい放題に口を開き、それがバズる、人の言説に乗っかかりあたかも意見の主流と言わんばかりに広がることが何度もあった。
出された資料や論説が本当に正しいのか、間違っているのかを調べる事もしなくなった。バント不要論などもそうだ。不要というのはいいがその根拠をどこに持つのか、これが曖昧だ。もしくはそれの書かれた文章をさも聖典がごとく持ち上げる。それが「なぜあっていると思ったのか」「それに賛同しようと思った根拠は何か」という事を語ることができない人は本当に多い。
誰もが無責任に、無責任な言動を世界に乗せられる時代に来た。
それは長らくメディアを動かす一部の力からの解放であると同時に、その力を持っている人から奪っても発信者が気を付けなければ結局同じようなことを繰り返すことを嫌というほど目の当たりにした。
検証を怠りながら古いものに唾を吐きかけ、それが本当に正しいのか、どこまで言えるのかを吟味せずに新しいものを礼賛する時代になった。ワイドショーが弱くなる一方で、批判してきた人々やそれに乗っかる人々がワイドショー化していった。
私も常々表現者側である自覚はあるし無責任な放言をするのも度々だが、こういった輪に入れないと思うのが常々であり、現状の「誰かの発言に振り回されている現代」は糸の切れた凧のようであり、どこに飛んでいくか、どう着地するか想像すらできず、やはり拒絶の位置に近くある。
戦争を知らない世代が戦争を語ることが難しいように、我々はやはり想像でしか物事を語ることができないのだ。
だからこそそこにあった事実というのは重要な意味を持つ。
何かが交わって、誰かの人生が変わった。それを様々な資料から追随して分析することに大きな意味がある。
過去多くのメディアが山本昌のスクリューボールを「フェルナンド・バランズエラから教わった」としていた。それを否定しない選択もあっただろう。
しかし山本昌にある実直な性格がそれを拒んだ。
「俺のスクリューはバランズエラのものじゃない。名前も知らない内野手から」
ここにジョセフ・スパグニョーロという男の人生が絡み合ったのだ。
しかも山本昌すら名前を忘れた選手だった。多くのメディアで無名の、が先に出た。
そこから多くの資料を得て、ジョセフ・スパグニョーロという人物に至ったのだ。今では山本昌もその名前を出すようになった。
そこには確かな物語があった。そしてそれを資料が語った。
山本昌が金田正一のように冗談交じりにホラを拭いていたらスパグニョーロという名前は永遠に出てこなかっただろうし、スパグニョーロがメディアに表れて「日本人に教えた」といったとしてメディアはまともに取り扱わなかっただろう。
記録や資料があって、そして人の言葉があって野球ははじめて物語になるのだ。
SNSの発達によって多くの言説が洪水に流れる小石のように襲い掛かってくるだろう。残念ながら人間はそう選択した。だから我々は甘受せねばならない。今更時計の針は戻せないし、失うものがあるからといって過去の方がよかった、など回顧思考を巡らせていたらそれ以上の進歩はないだろう。
だからこそ、調べる事に余計意味が増し、限りなく真実を追求していくことの価値がさらに上がっていく。
妄言が流布するこの時代だからこそ、多くの事実と、それを証明する資料の数々がさらなる時代の一歩を作っていくのだろう。
そんなことを、近年のSNSからバランズエラの死という情報を得ながら思っている。