「伝統」という名の「怠け者の正当化」
駒大を中退して消息不明だった千丸剛君が犯罪を犯して今回初公判に至った。その中で駒大野球部のいじめ体質に耐えられなくなって、中退した後、めぐりめぐってあの犯行に至ったという。
千丸君がやったことは犯罪である。どれだけ悲しい事実とめぐりあわせがあったにせよ、日本が法治国家である以上実行犯の一人として裁かれなければならない。そこを否定するつもりはない。そこに関してはあくまで彼の責任だ。運が悪かろうがどうしようが、自分のやった事実とは付き合っていかなければならないのが人生というものである。
しかし、それにおいての過程があまりにもめちゃくちゃすぎる。駒大野球部のあれはいったいなんだ。たかだか一年、二年年上であれば神様と言えるほどえらいのか。野球をしているだけでなにがえらいというのか。一年生は奴隷で、上級生は神様か。えらく安い神様もいたものだ。
しかしその上級生も、下級生の頃奴隷を経験し、今に至るのだから、彼らばかりが悪いとも言わない。悪いのはその習慣が「当たり前」であることを誰も指摘しない現状であろう。駒大野球部OBは社会に出て様々な経験をしているだろうし、今の社会の流れも知っているだろうに、なぜ誰も言い出せなかったのか。もしかすると駒大野球部OBの中には「社会」を知る人間が一人もいなかったのだろうか。「伝統」だから否定してこなかったのだろうか。「伝統」という言葉でそれに目をつむってきた彼らにはそれだけ言われる責任がある。
誰もあの陰鬱な「伝統」を止めなかったから今回の事件がある。事件の実行犯は彼だが、駒大野球部に遠因がなかったとは言えまい。
そもそも「伝統」とはなんなのか。
ラーメン発見伝でこういう話がある。
以前の大将が亡くなり、残った妻が店を継ぐために効率化を図ろうと食券や新しいラーメンの販売などを提案した際、長年働いていた部下たちが「大将の伝統を守っていかなければいけないのか!」と慟哭するシーンがある。
パッと聞けば以前の大将思いにも聞こえるのだが、主人公のライバルでフードコンサルタントはこういう。
「彼らは伝統を守りたいんじゃない。伝統や先代をかこつけて怠けている自分たちを正当化したいだけなんだ」
と。
駒大野球部のあらゆる人間は「伝統」という怠けるための方便を使って今日まで来たのではないのか。その結果が、大量の退部者を出し、あまつさえ犯罪者を生み出し、その遠因に自分たちの名前が出されたのではないか。
確かに千丸君のやったことは犯罪だ。
だが、駒大野球部はそれを担ぐ一端になったのではなかろうか。
「伝統」という怠けた自分たちの正当化をしてきたつけを、今回払わされているのではなかろうか。
正直に言えば、私は千丸君に同情をする。
「野球」を人生の大半に使い、それで数多から手を差し伸べられていた18の若者がこのような形で「野球」を捨てざるを得なくなり、実際捨てたら「野球の才能以外にお前の価値なぞない」と言われんばかりに多くの人間が手を引っ込めて、誰も「野球の有無にかかわらない自分」を見てくれる人がいなかった中で、さっと差し伸べられた手がどれだけ温かかったか。
その温かい手を差し伸べられた人のいう事をどれだけ聞きたくなるか。それがきな臭い案件だったとしても。
そんな流れを思ってしまうと、あまりにも彼が可哀想だ。
「駒大野球部の伝統」というものに殺されたも同然なのだ。
その上にこうなってしまったのは実行犯の一人とはいえ情状酌量に値する。法律的に実刑は免れなくとも、彼の感情は痛いほど理解できるのだ。
だから私は「駒大野球部の伝統」というものを憎む。
それは千丸君だけのためでなく、その「怠けた自分自身を正当化させるための言葉『伝統』」というものに摺りつぶされた野球少年たちの分も含めてを憎む。実力で負けたのならとかく怠け者の正当化のために殺されたのではたまらない。
そして大学野球という野球の一端に泥を塗った「駒大野球部の伝統」を私は許さない。「怠け者の正当化」を決して許さない。
これは別段駒大だけではなく、日本の大学野球全てにある「伝統」という名の「怠け者の正当化」を絶対許さないという事だ。
「伝統」であるならば、常にその「伝統」を疑い、さらに磨きをかけていくべきだ。そして「ここに来れば手に入る」という洗練されたものが「伝統」たるべきだ。
理不尽に他者をいじめ「その理不尽こそがいい経験」なんて怠け者の言い訳を「伝統」なんて言っているところはくそくらえだ。この世から消えてしまえ。
私は絶対に許さない。
野球を侮辱した「伝統」とやらを絶対に許さない。