野球に必要なのはデータか、感性か

情熱大陸におけるイチローの発言が物議をかもしている。

退屈な野球よ」イチロー氏、現在のMLBのデータ野球に「見えないことで大事なこと、いっぱいある」(スポーツ報知)
イチロー氏 現在のMLBは「退屈な野球」過度なデータ重視に危惧「怖いのは日本は何年か遅れで…」(スポニチ)

データに支配された野球を遂行するあまり野球としての魅力がなくなってきている、というものだった。これが「現在のMLBを否定している」と捉える向きと「イチローの言う通りデータに支配されている」と考える向きがある、というものだった。
確かに私も気になっている。
困ったらすぐにデータという言葉を使って野球を語ってしまう人や事柄が非常に増えていれば、そこから出たデータを妄信するかのように口に指定し舞う人が増えているのも事実だ。
それに対してうさん臭さを覚えている人も多くいるのは事実で、これがまたなかなかに難しい。なかなかに難しい問題だ。

1,データ野球≒アンチ軍隊野球主義

ただデータを優先する人には共通した考えを持っている。
それは過去日本の野球が育成してきた根性主義的なトレーニングを重視し、過去学んだ兵法で戦う軍隊野球のアンチ的性質を持つ。
「野球は投手なら走り込みと投げ込み、野手は素振り、ノック、ベーランで鍛えていく」「一番に足の速い打者を置き、二番打者がバントや小技、三番が点取り屋で四番がホームラン」
このような過去の戦略を使う事を非常に嫌う人が多い。二番打者がバントをしようものならかなり強い批判をする人も少なからずいるのは正直だ。

しかし感性という人はかなり安定しない。過去の軍隊野球を称賛する人もいれば、意外とデータ野球の考えに賛同している人もいる。ゆるくデータを信じている人もいれば、全く信じていない人もいるなど種々様々といった具合だ。
対立構造的なものというよりはデータや統計学といったものを持ち込むか、信奉するかの違いのように私は観ていたりする。

ただ特徴的なのはアンチ軍隊的野球を評する傾向は非常に強く、例えば完投を「投げすぎ」「酷使」とあまり賛同しなかったりする。
特にデータでの野球批判で浮かび上がってくるのはバントだろう。得点期待値の下がるものとして原則行わない方がいいというデータを使って強く批判をしているのは事実だ。
それは過去の選手が二番打者といえばバントのイメージを持ち、2010年代の今でも今宮健太のようにバントで打線の一翼を担っていた事実はある。それをフルスイングすれば得点期待値は上がるので無駄な行為、アウトを相手に献上するもの、という論を展開しているのは知る人も多いだろう。

打ったほうがよい打者にバントさせることでどれだけ損をしているのか(essence of baseball)

これらのように「過去の慣習からの脱却」というものを非常に好む傾向がある。
目の前にはっきりと出るデータを重視し、そこから出たものを扱っていくのだ。

2,データとどう付き合うか、という問題点

私はというと正直に言えばデータに注力するのはさほど賛成でもないというのが正直なところでもある。イチロー側の考えが非常に理解できてしまう。
データを使って様々な傾向を生み出す、という事は全く否定しない。むしろ様々なデータから選手を拾い集めて選手を揃え、チームを作っていくのはプロスポーツは当然だ。データを使わないでチームを作るのはデータスポーツの側面を持つ野球では無理だ。

とはいうものの、例えばwarなどはどこまで信用していいのか、という疑問があるのは否定できない。データと統計学で産出されたものから選手をつける、いわば「統計学版選手番付」みたいなものなのだが、果たしてどこまでそれを信用するのか、といった問題が付きまとうのである。

データとは過去の結果から算出されたものであり、あくまで昨日までのものでしかない。所属している条件や環境が違っても全く同じものが出るわけでもない。

私はこういうデータの話をするとき、お世話になった先輩からの言葉をいつも思い出すのだ。
彼は1984年のサンディエゴ・パドレスを例に出してよくこういっていた。
「確かにトニー・グゥインというのは打てる打者だった。しかし彼が若い頃から彼一人でばりばり打っていたかというとそれは違う」
と。

先輩はよくこういっていた。
「トニー・グゥインが1984年あれほどまで打てたのは盗塁の出来たアラン・ウィギンズがいたからだ。ウィギンズが盗塁を企画すると当然相手は盗塁阻止を企てる。その際投げるボールは多くが高めのストレートになる。2番打者だったグゥインはそこを突けた。ウィギンズが走るからこそグゥインが打てた。それゆえにウィギンズがいなくなった1985年は打率を落としているしチームも弱くなっている」
私は感銘を受けたものだ。
確かに私たちは選手一人一人の力だけを見てしまうし、驚異的な選手一人がいれば強くなると思い込んでいた。
しかし野球とはチームプレーであり、戦術が出来てしまえばチームも選手もこれ以上ない力を発揮する。これこそ野球と打順の醍醐味、というものだと学んだのだ。

それ以降私は打者が何をするか、の際に必ず前の打者がどう動いたのか、というのを見る癖がついた。考えてみれば前の打者や同じ打者の前打席を守備側は計算しながらプレーしているわけである。前の打者にインコースを投げてサードゴロにしたのなら次の打者は全く同じ投球をするか、全く反対のことをするかの選択が芽生えるわけである。逆に打たれたらあえて同じ投球をするのか逆にするのか。行動は同じだが企画内容に大きな差がある。
残念ながらここは数字に表れてくれない。同じインコースで投げる、という選択をするにしても、前者であるなら攻撃的なニュアンスを持つし、後者であれば奇襲的なニュアンスを持つ。これはやっている選手やチームでしか分からない部分なのだ。

データというのは選手一人一人を数値化しようとするあまり、この辺りをかなり軽視している印象を受けるのだ。
そういうところから完全に賛同が出来ない、というのは本音だ。

3,アメリカでデータが信奉される理由の考察

データで野球を観る、というのはアメリカではかなり強く育ったのだが、私はこれを日本であまり当てはめるべきでもないと思っていたりする。
それはアメリカが多民族国家で、21世紀に入ってからのワールドドラフト路線からグラウンドにいる選手全員が英語を話したり読める環境ではなく、一方で日本は選手の多くが日本語を読み書きできる国柄にあると思っている。

ドジャースなどはいい例だろう。過去あれほど国際色豊かで様々な国の選手がいたドジャースでは20世紀まで「ドジャースの戦法」をバイブルとしていた。
ドジャースタジアムをビッグスタジアムと考え、投手力と守備力を中心とし、打順に意味を持たせながらプレーするスタンスを生み出したのはまさに1958年、ロサンゼルスに足を踏み入れ、ドジャースタジアムの広さに驚き、過去強打を誇ったブルックリン時代のチームカラーを捨てたドジャースからだ。ドジャーブルーを彩った選手の中で長距離打者は21世紀に入るまでほとんどいない。まさにサンディー・コーファックス、ドン・ドライスデールから始まる投手と守備の歴史だ。
そんな国際色豊かなドジャースでも目立ったアメリカ人以外の選手を出すとメキシコ出身のフェルナンド・バランズエラや日本の野茂英雄といった投手が目立つ。それ以外は多くがアメリカ人で構成されているのだ。
21世紀に入りオーナーが変わるとその資本を使って多くの選手を入れていった。そうなると打棒の強い選手が続々加入してくるだけでなく必ずしもアメリカ出身ではなく、アメリカ出身であっても英語が読み書きできるか分からない選手が大量に入ってくる。そうなると緻密なアメリカ野球を行える土壌ではなくなっていき、選手の力にモノを言わせたチームへ変貌を遂げていく。そこには過去のドジャーブルーはなくなり、アメリカ西の横綱としてのドジャースが生まれたのだ。この是非については今は問うまい。
ただ94年のストライキから現在のフリーエージェント制に繋がる一連の中で、守備でチームを作る、というコンセプトは失われた。それがドジャース新時代のコンセプトと言われたらそれまでだし、このドジャースの流れを現在MLBは強く受けているのも否定できないだろう。

それと同じくして90年代後半、同じく西海岸に本拠地を構え、FA制度が誕生してから多くの選手に出てこられ、年俸高騰についてこれなくなったオークランド・アスレチックスがセイバーメトリクスを使い、マイナーやメジャーでも一軍半のような戦力を集めて適材適所の選手を作っていった、いわゆるマネーボールがはじまったのもこれからだ。
この二つが20年の間で強く混ざり合ったのが今のメジャーリーグである。

ここに21世紀からアメリカや周辺国の選手だけでなく世界の選手を集めるワールドドラフト路線が始まった。
そうなると今まで英語かよくてスペイン語のメジャーリーグに多くの言語が入ってくる。アメリカの野球スタイルなど知らない選手も多く入ってくる。その多くがドミニカ共和国やプエルトリコといった経済的に弱小の国である。そういった選手たちが戦術的プレーを好むわけがない。バント一つよりもホームラン一発の方が給料になる。だとするならばちまちましたプレーよりも一発に賭ける選手は必然的に多くなる。そういった経済弱者に属する国の出身者がチームプレーを進んで行うわけがないのだ。チームが勝つより自分の価値を挙げてサラリーを多くもらう。そしてフリーエージェントでさらにサラリーを高騰させていく。ならば地味なプレーなんかやってられない。
こういう考え方の変化もデータ主義に少なからず影響しているだろう。

こういう時に私は「フレーミング」を思い出す。
あれほど嫌われた「ミットずらし」がなぜ今あれほどよく言われるようになったか。それは機械の精度やストライクをストライクと……と言われるが私はそう捉えていない。いや、そこまでは間違いないのだが、もっと違う理由からスタートしている。
アメリカは日本のようにバッテリーの主導権が捕手にない。投手にある。原則的に捕手が「ここに投げろ」と指示はするもののそこに投げるものは必ずしも捕手の取り決めたものではない。あくまでサインも目安みたいなものだ。それほど投手の独立性が強い。
投手が言う事を聞いてくれる選手ばかりなら楽だろう。しかしアメリカはそうもいかない。相手の待ちが見えたら自己都合で変える。遅い変化球を求めたのに速球を投げ込むことも少なからずある。
これに先ほどの「目立つプレーをすることが給料に繋がる」と組み合わさるとどうなるだろうか。「ここに投げ込めばひっかけてくれる」場所よりも「三振の方が目立つから」意図的に変える選手が生まれてもおかしくない。
そうやってお互いの取り決めはどんどんと希薄になり、最終的に「取ってさえくれればなんだっていい」というものに変化していく。
そこにもうビタ止めもなにもなく「投手の投げたボールをストライクにしてくれたらなんでもいい」という至極シンプルな結論に結び付いてしまう。そこに今の電子制御などが加わってフレーミングが持てはやされるようになったものと解釈している。
多くの個人主義がアメリカのプレースタイルを生んだのだ。

「メジャーは選手一人一人はすごいが単調」と言われる原点はここにある。
チームカラーどころか国籍も何もかも違う中で、各々が自分にとって最適のプレーをしようとするあまり、チームプレーがいきわたらない。最悪出来ない。
だから化け物みたいなプレーをするし、チームプレー的なものは排除されていっているのだ。

そんな個人主義的なアメリカ野球で選手たちを縛るものはなにか。
それこそが多くの統計学を含む「データ」なのである。データで選手一人一人にフォーカスして、徹底的に数字で管理していく。彼らに戦術は求めない。「数字の上での適材適所」を重視し、戦術、ひいては戦略というものを過去にしてしまったのだ。
一人一人のソロプレイヤーが9人と投手陣、という形で構成されてしまった以上、それを定義づけるのが「データ」でしかないのだ。
もはやメジャーリーガーは「データ」なしではもはや成り立たない。
現役の間、自らを数字化させることでしか生き残れない世界が現在のメジャーリーグなのである。

それは思考を放棄した「退屈なもの」と揶揄されても仕方ないのだ。
それをメジャーリーグは選んでしまったのだから。

4,別にデータ主義である必要もない

そういう意味ではイチローの「データだらけの野球」は「データなしでは生きられないメジャーリーグ」に対するないものねだりでもある。
まだ「戦術」といったバイブルたちが息をしていた最後の時代に東洋の国からやってきたクリーンプレイヤーがイチローなのだ。
その彼の活躍と引き換えにするかのように弱かったシアトル・マリナーズをして「自分の数字ばかり作ろうと我儘をして安打しか打っていないからシアトルは勝てない」と現役時代批判されていたのはなんという皮肉か。
そしてイチロー達が信じてきたバイブルはほかならぬメジャーリーグが自ら火の中にくべてしまった。データと国際化、そしてフリーエージェントのみっつに押し流され、戦略は過去のものとなった。

では日本もそうなるべきだろうか。
いや、そうは思わない。
むしろ今からが反撃のチャンスであるとすら思う。

大谷翔平などといった稀有なプレイヤーが出てきてはいるが、NPBや社会人野球といった世界で戦うプレイヤーたちは全員が恵まれた選手ではない。メジャーの選手みたいに爆発的な瞬発力があるわけでもなく、162試合戦いぬく継戦能力を持ち得ているわけでもない。
しかし、個々の力は高くなくてもチームカラーなどで戦う事が出来る。個人主義化してしまったがゆえに焚書してしまった、戦術といった「バイブル」を未だに使う事が許される国なのだ。それこそ日本の長く残してきた歴史であり文化である。

過去アメリカでも「得点屋がいればあとは足の速い選手で固めるだけでいい」と開き直ったようなチームを作ったアトランタ・ブレーブスのホワイティボールのような「バイブル」によってチームを強くした時代があった。
しかしもうそれが残されているのは日本だけなのだ。だからプレーオフなどの短期決戦でチームでも地味な選手が急に輝くことがある。打撃のみならず走塁や守備といったスペシャリストがチームの華になることもある。
それらはもはやアメリカでは失われてしまったものなのだ。日本に住んでいたら割と気付かないのだが、アメリカがかなぐり捨てたものが未だに生きている国でもある。

だから私はそこまでデータと言わなくてもいいと思っている。
過去のものにデータを混ぜ込むことで新たなものを作りだす可能性を強く秘めている国でもあるのだ。
バイブルに頼る事で日本は強さを保てているとも思う。データと個人主義の世界であればWBSCで日本が一位を維持し続ける事は難しかったであろう。
日本だから成しえているのだ。

それを「アメリカがやっているから」とかなぐり捨てる必要性もないと思うのだ。
日本には日本の良さがある。アメリカにはアメリカの弱点がある。
それをきちんと客観視し、整理することで新たな発展があると思うのだ。

だからこそ私もイチローに倣い「退屈な野球をしない国」であってほしいとは思っている。

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