ゴールデングラブ賞から思う指標の話
私はどちらかといえば目の前にある選手の成績を見ることで満足する人間だから古いほうにあたるといってもいい。
成績とはあくまで自分がその試合や見てきた選手を思い出すものであって、それ以上のものではないという心積もりがどこかにあるからだ。
1,今年も賛否巻き起こるゴールデングラブ賞
ゴールデングラブ賞が発表されたわけだが今年もやはりというか賛否両論であった。
これに関して言えば一々どうこう言っても何か始まるわけでもないだろう。ある程度社会人として社会を生きてくれば純粋に一番すごいものばかり評されるわけでもないということがとことんわかってくる。どれだけ何かに劣ったものであってもそれを出す側の意向一つで大きく変化をするものであるのだ。
それゆえにゴールデングラブ賞は誰がとっても構わないと感じている。元々記者投票制のものだ。「記者にとって飯のタネを作ってくれた選手」が表彰されておかしくない。
守備指標がなんだといっているが、大衆はそんなものを求めていない。どこかで聞いたことある選手が守備もうまそう、という印象が付けばこの賞はもう成功なのだ。なんなら印象さえあれば本当に上手い選手である必要すらない。
虚構でぬりかためられた賞と言われたら否定する気もないが、確実に結果が出てくる投球や打撃に対し、ケースでどうとも取れてしまう守備は観念の固定化がはなはだ簡単とは言い難く、それこそエラー率くらいしか話せることもない、というのが現状なのだ。
投手はヒットを打たれたら、三振を取ればそれが積み重ねになるし、一方打者はヒット一本打ったら、ホームランを打てばそれが積み重ねることで評価が生まれる。
しかし「これを取れたから失点を防げた」「これがあったからアウトが増えた」といった守備を指標化するのは非常に難しい。選手の守備がうまく、普通なら取れるコースでも打球が速くて取れなければ守備が下手だったのか、それとも打球がよかったのかの判断が求められる。
エラーとヒットの境界があいまいになる瞬間があるように選手の守備力なのか打球のよさなのか、判断に困る場面は数多くある。
だからこそ守備というものは経過論になりがちで着地点を決めるのは難しい。
だから「守備がうまい」定義を各々が提示しなければならない。
「数字の上では」
多くの人が数多くの指標を取り出して批判をするが「なぜその数値を使ったのか」を明確に説明する必要性がある。そしてそれができた人を今のところは見た記憶がない。数字だけ押し付けて言い逃げするような状況が続いているように見えるのが本音だ。
「数字の上」がこれほど通用しない世界がないのも守備というジャンルなのだ。
我々観客だってその部分がある。
どれだけその選手に守備がうまくなくても勝敗を決めるここぞでファインプレーを見せてくれれば今までの結果な吹き飛ぶ。逆にどれだけうまくてもここぞでミスをされたら今までの信用は一気にがた落ちする。
「守備でもここぞで決めてくれる」「ここぞの守備はてんでだめ」
この境界線をどう定義するのか。これが難しい。バッターのように打った打たれた、ではないからだ。これがサッカーのようにボールを止める力だったりボールをカットできる力であれば数値化もしやすかろう。
だが野球の現実はそうでもない。どの試合でも「守備に阻まれる可能性のあったヒット」と「ヒットになりかけた守備」の二つがせめぎ合っている。
ここに選者側や主催側の考え方も絡むから余計面倒だ。
数値における定義づけがあいまいになりがちな守備でそこにそういった賞を贈る側の思考が絡めばはちゃめちゃなものやどうしても傾向に偏りが生まれるなど様々なことが起こるだろう。
ゴールデングラブ賞は特に主催者側の意図が出やすい賞であるので、それを今更どうだとかこうだとか言ってしまうのはナンセンスであるようには思う。
フォロワーの一人が「守備指標をどうこういうよりインフルエンサー一人にバズらせる方がよっぽど近くなる」と言っていたが、賞の性質上、どうしてもその方が獲得に近くなるだろう。
2,数字をコントロールしているか、酔わされ踊らされているか
しかし私も思うのだが、特にこういう曖昧になりがちな賞はどちらかというと興業としての意味合いが強いために概ねわかりやすい決着を求めるようなものではないのではないか、と思うのだ。
プロ野球はどうしても日本でも急速なアスリートスポーツ化が進んでいるため、野球をどれだけ精密に分析するか、一つでも解答を出すか、みたいなものに執着しがちなのであるが、それがどうも私には正しいものに思えないのだ。
特にすぐセイバーメトリクスを出してしまう人には「数字をコントロールしているのか数字に踊らされているのか数字に酔っているのか」わからない瞬間がある。
成績というのはあくまで選手の傾向を表すものである。
打撃がうまい選手がいたとしても、その選手が遠くに飛ばせるタイプなのか、遠くに飛ばせないが打つことが上手いのか、打力の低さを足でカバーしているのか、そういう選手一人一人の個性を表すものであると考えている。
その数値は高いに越したことはないが、高ければいいという単純な話でもない。
選手としての個性が数字に出るだけの話で、その数字は明日を約束するものでもない。
だからこそ積み重ねる数字というのは現在でも有用に扱われる傾向にあるのだ。安打は一本でも打てれば安打であり、相手に打たれずに投げれば一勝をあげられる。
打率2割でも40本打てればそれはその選手の個性であり、打率3割2分でも本塁打は10本未満ならばそれも個性だ。その積み重ねたもののハーラートップを決めるものが多くの賞なのである。
では守備のそれはなんなのだろうか。
そもそも守備機会は全員同列なものではない。打席数と違い、12球団の選手が同じ回数同じ守備を出来るわけではない。124試合出ても守備機会は全員違うものになるのだ。
打球はいつも同じ守備位置に行かない。そもそも守備機会が平等性を持っていない。どれだけ守備が上手くてもその守備位置にボールが飛んでこなければ指標のとりようもない。
そこが守備の指標の難しさだ。
グラブにボールが入る回数はどの守備の人間も同じじゃない。
そのうえに「丁寧な守備をするために守備のレンジを狭くする選手」と「多少のエラーありきで守備のレンジを広くする選手」といった志向もあるため、その正解はどちらがいいのか難しいものだ。
それこそオジー・スミスのように1980年サンディエゴ・パドレスで生んだ捕殺MLB記録のようなものでもなければはっきりと言えるものは少ないのだ。そんな彼ですらその年失策24という数字を残している。
捕殺が多いから守備が上手いともいえるし失策が24もあるから下手ともいえる。だが今日までオジー・スミスは守備が上手い、と言われている。それは捕殺や守備率からみれば一目瞭然といった具合だが、そこに彼の印象も大きく絡んでいることは忘れてはならない。成績がいいから守備がいいのか、守備がいいから成績がいいのか、ここの答えを出すのは打撃のように積み重ねたものではないから非常に難しい。
そして「スミスがそのバットで1点をたたき出すことは稀だ。しかし、彼はそのグラブで確実に2点は防いでくれる」という言葉があるようにどこかしらでオジー・スミスは守備の人というベクトルも働いている。2460本も安打を放った選手であるにも関わらず、私たちは想像以上にオジー・スミスを守備の人として捉えているのだ。
これだけのものが複数絡みあうものを十把一絡げに「守備」と言っているのが野球なのだ。
そして数字を扱えばどうとでもいえてしまうのが守備の指標でもあるのだ。
だからこそ我々は印象で守備を語ってしまう。
それは間違いではないのだ。守備が上手い、という言葉と共に我々は球場に足を運び、試合を見るのだから。
「あんなすごい場所から打球を取れる」
「こんな場面でファインプレーを見せつけてくれる」
事がどういう数値を持ち出すよりもよっぽど大きな意味を持つ。指標で説明しにくい曖昧な部分だからこそこれが成り立つのだ。
3、本当に数字の上で野球は語れるのか、また語っていいのか
だから多くの指標や数値を持ち出して結論を急ごうとするのはあまりにも野球を観る側としての行動からかけ離れた行為ではないかと思うのだ。
別に選手は数字が野球をしているわけではない。選手が野球をしてそれが数字に表れるのだ。そのために数字に出ている部分のほうが稀で、その多くがグラウンドの中で消化され出ていない。数字として表せることにこそ面白味があるというもので、それは絶対的なものではない。逆説的に言えば打撃のような同じ条件下で積み重ねるものほど絶対性が高いから価値があるのだ。
守備はどうしてもそれができない。多くがニュアンスを含んでしまう。
それを数字で説明してしまおうというほうが土台無茶なのだ。円周率を求めるようなもので、どれだけ延々と数字が続いても円は存在として成り立つようなものなのだ。だからこそ過去の数学者は√やπを使うことで代返措置をとってきた。
我々が納得しなくても成り立ってしまうものなど世の中にはいくらでもあるのだ。
それを納得いかないあまりに完全とも呼び難い数字や統計学を使って説明をしようとすることには違和感を覚える。
守備という世界は不確かであるし、どれだけの名手ですらエラーをするからこそ我々は楽しめるのであって、それを数値による絶対化は守備という世界の本質からかなり外れる。間違いとまではいわないが、そういった数値や統計は守備という存在の一片であり、そこを取り出してやれ違うだの正しいだの言うのは滑稽甚だしい。
よっぽど積み重ねた守備率と捕殺率で語る方がよっぽど健全だ。その健全さを謳っても「エラーは多いが守備範囲は広い選手」と「エラーは少ないが守備範囲は狭い選手」の論争を決着させることができず、これも守備の一片しか語れない。
だからこそ今日まで多くの統計学が広がったのであり、それは野球の一片しか語れないものであることを言っておきたい。
そんな断片的なものに「守備」という哲学さえはらむような大きな題材を任せるのが土台無理な話なのだ。抽象的な印象論に任せるのは暴論ではあるが、一々全員が納得できるようなものを出すために検証していたら来年のシーズンが始まってしまう。
そんな数日前に炊いたコメなどうまいわけがない。
そういうことをするのは出された数字をもとにああでもないこうでもないと毎日成績表とスコアブックをにらめっこしている物好きだけで十分なのだ。
だからこそゴールデングラブ賞は出されたものが正解なのだ。
選者が正解と思ったものなのだから、それが正解。
守備という曖昧なものに、自分たちの意思を出して決めたものなのだから、それを外野の我々があーだこーだいうのは時間の浪費でしかない。
それなら安物でもいいからトロフィー18本買って所定の論理の元「僕たちの選んだプロ野球守備ナンバーワン賞」を選手たちに、それこそ勝手気ままに贈与する方がよっぽど建設的だ。
多くの記録や数字を使って検証をし、自分やチームなりの答えを出すことは我々野球をたしなみにする人々にとってまぎれもない正解だ。それは割かし選者の印象論(と恐らく書いた記事量)で決まるゴールデングラブ賞とやっていることは何も変わらない。
各々できちんと「自分たちが決めた」でいいのではなかろうか。それが数字によるものであれ、印象によるものであれ。数字を介さないことによるダイナミズムと数字を介すことによる繊細さは相反する部分もある。
それを理解しながら遊べばいいのではないのか。
Figures don’t lie, but liars figure. (数字は嘘をつかないが嘘つきは数字を使う)
マーク・トウェインが言ったとされる言葉だが、発言者の真偽はとかくにせよ、もう一度数字に対して盲目的に信じることをやめた方がいいのではないかと思うところはある。
信じるなら信じるなりに「なぜ自分たちがそれを信じるのか」をきちんと整理する方がもっといい未来に進めるようと思うのだ。