1923年、ワールドシリーズ

1,王者ジャイアンツの驕り

100年前のニューヨークはまさに頂上決戦の様相を呈していた。
ナショナルリーグで栄冠をいまだ被っていたニューヨーク・ジャイアンツとベーブ・ルースの登場によって一気に時代の寵児となったニューヨーク・ヤンキースの激突がまた繰り返されるのだ。

そもそもヤンキースは1923年までジャイアンツの後塵を拝してきた。
1921年に相まみえたお互いはヤンキースも抵抗したものの5勝3敗しジャイアンツが世界一の栄誉を手にした。まだお互いのホームグラウンドがポロ・グラウンドだったころだ。勝者の栄冠はポロ・グラウンドの所持者であるジョン・マグロ―の頭に置かれた。
1922年はベーブ・ルースが.118の低迷。それに引きずられるかのように4勝0敗1分という醜態をさらすことになる。
未だにポロ・グラウンドを本拠地にしていたヤンキースは二度もジャイアンツに王者の貫禄を見せつけれられた形になってしまった。

「ニューヨークのベースボールはジャイアンツ」
「しょせんヤンキースはニューヨークでも後追いの球団」
「ベーブ・ルースが出てきただけの一発屋」

このような状況で、それでも人気は
「俺のホームランを観にくる」
とまで豪語したルースのいるヤンキースであり、それはジャイアンツによっては目の上のたんこぶであろう。勝手にポロ・グラウンドを貸してやっているのに宿主の球団より目立っている。
目立っているということは確実に宿主より稼いでいる。
そのくせお互いが対峙したら弱い。弱いくせに目立っているのがジョン・マグロ―率いるジャイアンツがヤンキースに与える評価だ。

それゆえにポロ・グラウンドを追われることになるのは想像に難くない。
そうでなくてもベーブ・ルースなんて男はポロ・グラウンド特有の257.65ft(約78.5 m)なんて短い飛距離でホームランを打っているだけの男だ。そんな奴のために宿を貸してやる必要はない。
まだ主軸を担っているエミル・ミューゼル(登録名はアイリッシュ・ミューゼル)の弟、ボブ・ミューゼルが主軸ならまだかわいがれる余地はあるが。


エミル・ミューゼルとボブ・ミューゼル

そうでなくてもヤンキースをニューヨークの球団とは到底言い難い。
1910年代に経営に失敗したボストンの連中やフィラデルフィアの白象から落ちぶれてきたような、自前などほとんどいないチームなのだから。

そうでなくても戦力は充実している。
主軸にフランキー・フリッシュ、ジョージ・ケリーは投打に十分であるし、アイリッシュ・ミューゼルも125打点で打点王だ。ケーシー・スティンゲルもいる。
負ける要素はない。要素はなかったのだ。

2,追い出された側、ヤンキース

ポロ・グラウンドから追い出されたヤンキースはニューヨーク市長の計らいもあってブロンクスに腰を下ろした。
ルース人気は絶頂だったものの、どうしても勝てない。あと一歩で勝てない。

ルースだけのチームか、と言われたらそうではない。
ルースとマーダーズロウを形成し、ルースからホームラン王を奪うことになるボブ・ミューゼル。ルー・ゲーリッグ前のファーストを守り、打撃も走塁も高いレベルでこなせていたウォーリー・ピップ。
ボストンからやってきて投手として花開いたバレット・ジョー・ブッシュ。ボストン時代の輝きを取り戻し始めたサッド・サム・ジョーンズ。アンダーハンド、カール・メイズといった強力な投手陣がいたのだ。

しかしヤンキースにはベテランがいなかった。
かつてフィラデルフィア・アスレチックスで「ホームラン」の名を得たホームラン・ベイカーが戦力としては想定できなくなりつつあり、最年長はキャッチャーのウォーリー・シャングの32歳。
よく言えば若々しく、悪く言えば要所で占められる選手がいないチームであった。
若きレフティ・オドールが少し姿を見せたものの翌年にボストンへトレード。この時みた両者の姿が後々日本球界に影響を与えることになるとはだれが思うだろうか。

ヤンキースは若々しいチームであり、一方で細やかさに欠けた。
柔よく剛を制す、という言葉があるようにここぞで勢いに乗れないヤンキースはどうしてもジャイアンツに敗北を重ねていたのは間違いない。事実22年はルースの不調がそのまま一勝もできない事態に至らせている。

しかし、彼らは二年も負け続けである意味経験値を積んでいた。
そしてルースの建てた家ことヤンキースタジアムも得た。もはやポロ・グラウンドを間借している二流球団ではない。
柔よく剛を制す、と剛よく柔を断つ、ともいう。

決戦は遠くなかった。

3,対決、ジャイアンツvsヤンキース

このシリーズで活躍したのは意外なことにベーブ・ルースではない。
確かに19打数7安打、うち3本塁打という成績を残しているのだが全てソロホームランでシリーズ通して3打点と寂しい成績を残している。今年もルースにとってワールドシリーズは鬼門であった。

同じく7安打(26打席)で8打点を残した選手がいる。それがボブ・ミューゼルであった。三塁手、ジャンピング・ジョー・デュガンの7打点と二人で全試合の打点28のうち15を出している。打者としては彼らが活躍した。

ジャイアンツの安打は意外とセンターを守るケーシー・スティンゲルであった。彼は4打点貢献している。

打撃はやはりヤンキースが優勢だ。
しかし決定的に違ったのは投手力だ。

ジャイアンツはアート・ネーフを中心に先発陣が崩壊。
ことごとく打たれまくり、25失点を与えてしまう。
しかしジャイアンツでもこれほどの傷を受けるのは覚悟の上だろう。なんだかんだヤンキースは打撃のチームだ。守備と足のチームであるジャイアンツが最終的にヤンキースより一点多ければ勝てるのだ。


出身地からケネットスクエアの騎士と呼ばれた

しかしヤンキースにとって救世主のような選手が入団していた。
名はハーブ・ぺノック。後々に野球殿堂入りを果たす投手である。
やはりというかジョー・バレット・ブッシュ、サッド・サム・ジョーンズはワールドシリーズを得意としておらず、点をほとんどとられていないのに敗戦投手になっている。(ともに1敗)。チームを支えてきた彼らで借金を作ってしまうような状態であった。

しかしこのリーグはぺノックが先発し2勝している。
初登板は第二戦。ローズ・ヤングスやアイリッシュ・ミューゼルに2失点するものの9回を投げ勝利投手に。
第四戦にボブ・ショーキーからマウンドを譲り受け1.1イニング投げ1失点するものの見事にリリーフ。なお、ここでもローズ・ヤングスにホームランを打たれている。
そして最終戦の第六戦に先発。この時はフランキー・フリッシュにホームランを打たれるなど4失点しているものの7イニングを投げ、サッド・サム・ジョーンズに交代。その後無失点に抑えヤンキースは初のワールドシリーズ制覇の栄冠を手にすることになった。

ぺノックは前年までボストン・レッドソックスにいた。
先発として活躍していたものの二桁勝てば二桁負ける、そんな先発の一角を出ない男であった。
その彼が1923年、ヤンキースに入団すると急に19勝6敗と成績を伸ばす。そこから1桁勝利になってしまう1929年までなんと勝率.669(115勝57敗)。1920年代のヤンキースを支えていくことになる。

そういう意味では存在感を失っていくジョー・バレット・ブッシュやサッド・サム・ジョーンズの交代も含んでいたように思える。
1920年代のヤンキースを支えた彼らからぺノック、ウェイト・ホイトへの先発陣が変わっていく、ちょうどその時がこのタイミングであったともいえる。

かくして遂にジャイアンツがかぶり続けてきたニューヨークの王冠を脱がされ、二流球団であったヤンキースの頭に降りてくることになった。
そののちの顛末はもはや話すことではないだろう。

100年前のワールドシリーズはそのようなニューヨークの野球にとっても変化の兆候を見ることができる年だったのだ。

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