ジャッキー・ロビンソンを語ろう

アメリカの今日はジャッキー・ロビンソンデーとしてMLB中の全選手が背番号42をつけることを許される日であることはご存じだろう。

1947年4月15日。ブルックリン・ドジャースの開幕戦においてエベッツ・フィールドに初めて黒人選手の名前が刻まれた日にちなんで今日をジャッキー・ロビンソンデーと定めたのが2004年。これの提案がかのケン・グリフィー・Jrというのだから驚きである。

今でも日本に来る助っ人外国人、特にアフリカ系選手は42番をつけることを非常に好むのだがこれが大いに関係している。プロの世界で42をつける事は特にアメリカでは意味のあるものなのだ。

しかし、ジャッキー・ロビンソンは初の黒人選手だった、という以外にそれ以上を知る人は案外少ない。なので今回はそれを記事にしようと思う。

1,MLBにはロビンソン以前に黒人選手がいた。ロビンソン以前のアメリカ

今では大分なじみになってきているが、ジャッキー・ロビンソンより前、19世紀には黒人選手がいたことがすでに知られている。モーゼス・フリート・ウォーカーが1884年、トレド・ブルーストッキングすで弟のウェルディ・ウィルバーフォース―・ウォーカーとともに試合をしている。

特に有名なのはキャップ・アンソン率いるシカゴ・ホワイトソックス(現カブス)との試合にウォーカーが出場しようとすると試合を拒否した、という事だろうか。もともと人種差別主義者として有名だったキャップ・アンソンを語る上では外すことのできないエピソードの主役が彼らでもある。

結局モーゼスは42試合、ウェルディは15試合の出場でMLBの舞台から去っている。その後もジョン・マグロ―が才能豊かな黒人選手をなんとか自分のチームでプレーさせようとおしろいを塗らせてみたりして出場を試みているのだが、失敗に終わり、戦後になって黒人選手が復活する、というのが時代の流れである。

面白いのがここのあたりの時代における黒人の上級層なのであるが、彼らはスポーツをして息抜きをさせる事は自分たちのフラストレーションを抜かせる原因になり、主権復帰を妨げるのでやってはならない、という意見を持っていることである。これは川島浩平氏の「人種とスポーツ‐黒人は本当に「速く」「強い」のか‐」(中公新書)に詳しいのだが、19世紀には同族ですらもスポーツをすることを是としていない記述があるのは面白いところである。

ただ、南北戦争を一つの契機に白色人種のみならず黒人にも野球や楽器といった文化、スポーツに触れる機会が増え、1920年にはルーブ・フォスターがニグロリーグを発足。音楽はジャズを生み、キング・オリヴァーを頼ってルイ・アームストロングがシカゴで才能を光らせていく。差別はあっても、黒人の文化はロビンソン以前にも花開いていたのである。

2、MLB選手「ジャッキー・ロビンソン」が生まれた時代背景。戦争が時代を変えた

禁酒法、世界恐慌を経験したアメリカに次訪れたのは戦争であった。元来モンロー主義として外政不干渉の意識を持っていたアメリカも、世界恐慌の影響からブロック経済を視野に入れざるを得なくなり、フィリピンなど東南アジアに植民地を増やしていこうとする。それに乗り遅れまいと動いた日本と衝突することになってしまい、1942年、ハルノートと不受理を契機に日本とアメリカが戦争状態に入っていく。

独立戦争や南北戦争など戦争自体は経験のあったアメリカではあったが、こういった資源や植民地が理由となった戦争は初めてであり、国民感情にもかなり影響を与えている事が様々な書籍から見受けられる。

日本でもあまり語りたくない戦争として扱われるが、アメリカにおいても心中穏やかな日々を送っていたわけではない、というのは面白い。どの国も戦争が始まるとわが身ここにあらずになるのである。

近代アメリカにおいてはほぼ初めての対外戦争でもあるので、国民は総動員、週刊空母と呼ばれる工業力を出したのだが、それに伴い肌の色関係なくアメリカを守るための志願兵が募われたのだ。

今まで明確にあったカラーラインが「アメリカを守る」という理由で崩れていき始めたのがジャッキー・ロビンソンを生む土壌となっている。

また、MLBだけで見てしまっても選手が徴兵され、隻腕選手ピート・グレイが登場するなど選手不足がかなり目立つようになる。戦後になって従軍していた選手は帰ってくるが、全員がすぐに、というわけではない。徐々にであるので選手が揃うまでに時間がかかった。

戦争というファクターが近代MLB初の黒人選手を生むきっかけになったのである。

3,なぜ「ジャッキー・ロビンソン」だったのか

これは言われて久しいが、ジャッキー・ロビンソンは決して野球選手として高い評価をされているわけではなかった。

1945年カンザスシティ・モナークスに入団し、打率.345とも.387ともいわれる数字を叩きだしているが、所詮は単年のものであり、今後の活躍に期待、という程度のものであった。

ではなぜ選ばれたか、というと年齢と能力もだが、それよりも彼の経歴が大きく関わっている。

彼はUCLAに籍を置いていたこともあり、白人とコミュニティを作る事がある立場にあった。最終的には名誉退学をしているのだが、大学に籍を置いていた、というのは魅力的であった。

また、彼は先の戦争に従軍し、士官学校を卒業している。そして前述のとおり戦争を契機にカラーラインが崩壊の兆しを見せているところから、その当事者の一人であったのだ。

さらに言えば、兄マシュー・ロビンソンはオリンピック経験者でもある。これほど輝かしい経歴を持つ選手はほとんどいなかったのだろう。そこが彼が選ばれた要素である。

勿論彼よりも素晴らしい野球選手はいた。サチェル・ペイジ、ジョシュ・ギブソン、クール・パパ・ベル・・・。そんな珠玉の才能が集まる中、あえて一年しか活躍していない彼が選ばれた背景には、そういったものが見え隠れするのである。

ただでさえ選手は少なく、カラーラインが崩壊の兆しを見せる中、能力があれば黒人でも使う、という意思を見せたブランチ・リッキーの剛腕によって、1947年にMLBの旗のもと、黒人選手が姿を現したのである。

4,ジャッキー・ロビンソン、そしてイチロー

そこから先は42など数多くの映画や作品になっているから深く語る必要もあるまいとして、最後にひとつだけ面白い話をしようと思う。

ジャッキー・ロビンソンとイチローの関係である。

勿論彼らに直接の関係はない。だが、二人ともある人物の名前が絡んでいる。その名は「ゴージャス・ジョージ」と呼ばれたセントルイス・ブラウンズ屈指の打者、ジョージ・シスラーである。

彼は野球の才能ありきで入ったわけではない、と書いた。しかし簡単につぶれるような選手が来ても困る。そこで野球の能力を確かめさせるために派遣したのがかつての大打者にしてタイ・カッブ、ジョー・ジャクソンと打棒を争ったシスラーだった。

彼がロビンソンを見て、選手としてもいけると踏んだからロビンソンはMLB選手になれたのである。

そして、イチローがMLBに入団し、安打を重ねる姿を見て、メジャーリーグの歴史オタクたちが誰の生まれ変わりと言ったか。そして2004年、彼の生まれ変わりと言われたイチローは誰の記録を抜いたのか。

MLBの歴史を動かした影で、意外な人物の名前があるのも歴史の面白さなのである。ぜひ野球好きの方々にはジャッキー・ロビンソンデーをきっかけに野球とその時代や歴史、意外な接点などに思いを馳せていただきたい。

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