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誠実すぎた男、落合博満

『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』

 人は社会に属し、仕事を行う上で必ずしも己が意見を通せるわけではない。いつだって誰かの『意見』という名の命令に従いながら生きていくしかない。固い意志を持っていてしても折らざるを得ない場面が多々ある。人は社会に属し、仕事を行う上で必ずしも己が意見を通せるわけではない。いつだって誰かの『意見』という名の命令に従いながら生きていくしかない。

 折れず、曲がらず、生きていくには多くの敵を生み、時には自分以外を巻き込んでしまう。そうなるくらいならと自分の信念を腰と一緒に折り曲げるのだ。

 だからこそ彼は折れなかった。折れる事が目標を達成することに対して障害になることを知っていたから。それがメディアから、本社から、本来愛してもらうべきファンを時には敵に回しながら、中日ドラゴンズを優勝させることだけに真剣に向き合った。

 損な役を引き受けた男が「落合博満」であった。その姿を追った記者であり、その著者である鈴木忠平が観た彼の姿こそ「嫌われた監督」であった。

 落合博満は多くの番組でこういう。

「オレ流は俺自身から言ったことがない」

 彼を揶揄する言葉で必ず出る「オレ流」。確かに彼の口からその単語を聞いたことがない。彼の言動を囃し立ててマスメディアやそれを受けた我々が彼の姿をさも象徴するかのように「オレ流」と囃し立てるのだ。

 それもまた賛否両論だ。「わがまま」と言えば「きちんと結果を出す」と言いたい放題だ。それは仕方ないことだ。我々はカメラのレンズや液晶モニターからでしか彼を知る事は出来ないし、一方で彼は我々を知る事すら出来ない。

 記者の質問を受け、それが紙面やメディアに乗った時に我々が勝手に想像して、社会の営みと比較をすることで初めて「オレ流」が完成するのだ。

 だから「オレ流」は彼の言葉ではなく、我々が「落合博満」を語る時に共通認識として一番理解しやすい言葉を選ぶときに使われる記号的単語が「オレ流」なのだ。

 だから「オレ流」とはなんなのか、誰にも分らない。各々が好き勝手に咀嚼して、自分の中にある「落合博満」を最も指す言葉が「オレ流」なのであり、その言葉の解釈は人によって分かれるものなのだ。

 では、落合博満という男は本当に「オレ流」なのか。

 恐らく著者の鈴木忠平はそう思わなかったのではないか。それは彼の著作のあちこちから漏れ出てくる。彼が落合博満の車に乗り話を聞いた時、別荘で家族と一夜と共にした時。「監督・落合博満」がどう苦悩し、何を選んだか。それがありありと描かれている。

 ではなぜ落合博満は苦悩し、時には感情をむき出しにしたか。

 それは、本書を通して一貫した考えである「中日ドラゴンズを優勝、日本一にする」ことを落合博満本人が誰よりも強く意識し、それに応えようと懸命にしてきた結果なのだ。だから一挙一動に一貫性があり、そしてその強すぎる思いが今までの慣例を拒否することにもなった。

 コーチやスタッフへの徹底的な緘口令、メディア立ち入り封鎖は今までの慣例を破壊し、中日ドラゴンズとマスメディアの関係性を失わせた。それゆえにマスメディアでも彼を嫌うものは多く、退任を喜ぶほどではなくとも安堵するものは少なくなかった。

 だが、なぜそれをしてきたかと言えば、下手な情報が漏れたりすることを極端に嫌がったからである。あることないことを適当に吹かれるのはいい。だが、その中に内部から漏れた本当が混ざっていては困るためにこのようなことを徹底したのだ。

 ではなぜそこまでやったのか。それは就任した時に言付かった命題「中日ドラゴンズを優勝・日本一にさせる」ために障害になると判断したからではなかろうか。緘口令を破る者はたとえかつてドラゴンズでスター選手扱いをされたコーチであってもクビを切り、マスメディアが入ることを許された場所すら立ち入り禁止にしていったのは、ほかの誰でもない落合氏自身がその命題を誰よりも願い、それをこなそうとしたからではないだろうか。

 つまり、落合博満は「中日ドラゴンズを優勝・日本一にさせる」ことに誰よりも誠実であったから、他者から「オレ流」と揶揄されてでも必死に動いてきたのだ。

 中日ドラゴンズを優勝・日本一にさせるために最も効率的なことを愚直に行ったからこそ、2007年、天地俊一監督以来の日本一になることが出来たのではなかろうか。それを誰よりも「落合博満」が信じたからこそ、その誠実な行動が実ったのである。

 その誠実さを、我々は慣習から「オレ流」と言い切ってしまったのだ。我々は「オレ流」という言葉と一緒に、彼のいる場所から梯子を外したのだ。「あいつはわがままだ」「我流を通して結果を出した」と、落合博満の本質を無視したまま、杜撰に「オレ流」という言葉で語りきってしまっているのだ。

「嫌われた監督」はそのような「野球好き」の我々に対する警鐘のようなもののようにも思えてならない。

 監督や選手の考えや気持ちを無視したまま、大雑把に、時には統計学などの数字を駆使して無理やりレッテルを張り付け、その結果を見て時に嘲笑し、時に侮蔑する。行動も結果ありきで、結果から逆算して自説を顧みるどころかむしろ補填していき、その真実を歪めて理解していく。

 そこに人間的な、血の通った見方を失っているように感じるのだ。ただ勝負と打率、防御率をみてやれあいつはダメな選手だ、だめなチームだ、とレッテル張りにいそしんでいる可能性があるのだ。

 そのレッテル張りの結果の一つが「オレ流」である可能性を我々は否定できない場所にいるのだ。

 人は社会に属し、仕事を行う上で必ずしも己が意見を通せるわけではない。いつだって誰かの『意見』という名の命令に従いながら生きていくしかない。

 確かに社会を生きていくには必要な事であるかもしれない。

 ただ、我々はそれを言い訳にして、他者の巻き込んででも自分の意思をまっすぐ伸ばす男の背中に唾を吐きかけているのではないか。

 そう疑問に思うのだ。

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