ピート・ローズから古きアメリカを偲ぶ

日本のプロ野球を形成した一人と言われるドン・ブラッシンゲームの代わりにメジャーの舞台へ上がったのがピート・ローズであるという事を知る人は少ない。
そう、最初はセカンドの選手であったのだ。
シンシナティ・レッズは強打のセカンドが来ることが多い。
この後に表れるジョー・モーガンもそうであったし、近年であればブランドン・フィリップスなどは記憶に新しいか。強い当たりを打てるセカンドが誕生するのはシンシナティ・レッズというチームでも少なからず、という具合だ。

ドン・ブラッシングゲームがシンシナティにいたころという事は60年代前半になる。実際the showは1963年。
ビッグ・レッド・マシンの存在があるので若い印象があるのだがむしろその名前が呼ばれ始めた1975年ごろにはもうベテランの域になっていた。存外古い選手であったし実際1975年ごろから打率が段々と落ち始めている。ビッグレッドマシンの頃に全盛期が来たのではなく、むしろ落ち目が見え始めた頃にチームの全盛期が来たのだ。

ピート・ローズというとその安打数に注目されがちだ。
しかしメジャー在籍24シーズンにして通算1143三振という驚異的な三振の少なさ、それに上回る1566四球という成績が目に入る。三振をせず、四球を選べる選手であったのだ。
お世辞にも盗塁が上手いわけではない。一方で守備が上手い。エラー率が.987は外野手をこなしながらとはいえ内野手では立派だ。

とにかくボールを扱わせたら天下一品だった。
その数字が表れたのが誰もが知る4256という化け物じみた安打数であろう。
とにかく打ち、塁に飛び込んだのだ。
ルーキーイヤーの1963年には170のヒットを打っているのだからもう申し分なしだろう。初年度ではヴェイダ・ピンソンの204安打に次ぐ数字だ。化け物ルーキーの登場だ。
そんな姿を後に日本に来ることになった控えのダリル・スペンサーはどうみただろうか。奇しくもパリーグのレベルを上げた男達のいた球団で生まれた革命児だった。

ピート・ローズという男はヒットの数も多いがそれに次いで二塁打の数が多い。その数なんと746。かのボストン・レッドソックスを支えた100万ドルの外野陣、トリス・スピーカーの792に次ぐ。まだ本塁打というものの価値が高くなかった、打撃と足の時代であった選手を重ねてきた数字で強引に引き出してきた選手の一人だろう。
安打の歴史は今後、東洋からやってきた一人のニンジャによってジョージ・シスラーどころかキャップ・アンソンという19世紀の選手まで引き出されることになるのだが、それは彼が引退して10年近く必要とする。

盗塁が決してうまくなかったピート・ローズはその多くを二塁打にすることで存在感を示した。一塁に進んで盗塁で二塁にする、という一番打者のルーティンを最初に破壊した選手の一人かもしれない。
ヴェイダ・ピンソンとフランク・ロビンソンがいる頃から一番を任されていた。それがジョニー・ベンチやトニー・ぺレズに代わっても、ジョー・モーガンやジョージ・フォスターに代わっても一番を打ち、どうしても打者がいないときに三番などを打った。その大半が一番で野球人生をかけている。
まさに打てる一番であった。

その激しいプレーが観客を沸かせた。
ヘッドスライディングで果敢に飛び込んでいく姿はピート・ローズという選手のアイコンとなっていった。全力で塁に駆け込み、飛び込む姿に多くのファンが胸をときめかせた。
今でこそ何を言い出すか分からない謎のおじさん扱いされていたが、その強烈な姿にシンシナティの人々は酔いしれ、愛した。その荒々しいプレーと性格は後先考えずに猪突猛進でワイルドな古き良きアメリカンの姿であった。

ピート・ローズには西部劇の主人公のような荒々しい姿がよく似合った。
野球賭博が原因で球界追放をされても未だに愛するファンがいた。シンシナティがチーム殿堂入りに彼を入れたのは決してその安打数だけが理由ではないはずだ。ピート・ローズの豪快なプレーに人々は忘れかけていたフロンティアスピリットを思い出したからのだ。

そんな彼の一幕で私は好きなところがある。
イチローが3000安打クラブに入った時だ。
「日米通算で俺の記録を超えるなら俺のマイナーの記録を入れろ」
と相変わらず言いたい放題だったピートおじさんがふと
「本塁打打者でない選手が達成したのは素晴らしいこと」
とコメントした時だ。
この時にピート・ローズの人柄に改めて触れたような気がしてたまらなかった。あれだけヒットメーカーで活躍した彼も安打を打ち続けることに対する矜持を持ちながら、やはり自分が3000安打クラブでも特段変な存在に分類しているのに気づいていたのだろう。彼の本塁打数は160。ホームランの少ないポール・モリターですら234本打っている。イチローはさらに少ない117本だ。
本塁打を含んだ打の総合商社ではない、ひたすらに安打を重ねてきた者同士だからこそのコメントであった。
素直に褒められないがどうしてもっていうのなら、と言わんばかりの愛らしさがそこにはあった。

とにかく愛された男であった。
プロレス団体WWE一年の祭典、レッスルマニアにゲストアナウンサーに呼ばれるとケインに投げられたりして盛り上げた。そしてヒーローとして活躍もしていないのにWWE殿堂入りを果たしている。それは永久追放を食らったMLBではもらえない殿堂入りのせめてもの、というべきか「俺たちWWEは誰でもヒーローを受け入れる」という姿勢なのかは分からないにせよ、ローズという人間が愛されていた事を思わせる。
憎たらしい発言をすれば今どきの言葉でいう「老害」みたいな発言もややもする。
だが何故か憎めない。
やれイチローが記録を出しても大谷翔平が記録を出してもあれこれ言った。それは誰であっても言っていただろう。それは彼は古きアメリカンであったから。「お前はすごいかもしれないが、俺の方が遥かにすごかった」と自信満々に言い続ける姿に、人々は彼からアメリカを見たのだ。
古きジョン・ウェインに出てくるような豪快で荒々しくも、不器用さがチャーミングに映る、そんな男を愛したのだ。

そんな彼が、この世を去った。
恐らく全力疾走で。いや、怪我をしないような機転も利く男であったから意外と力をためて行ったのかもしれない。
終わりゆく西部劇の時代を懐かしみながら、スチームローラーに押しつぶされて作り直されていくアメリカと共に私たちは今日も生きていかなければならない。

R.I.P Charlie Hustle.

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