投手トミー・ジョンを追え ~下~
1,トミー・ジョン手術の影響か、年齢か
トミー・ジョンは手術以降だんだんと三振数を減らしている。
それでも1979年までは100三振を奪っているのだが、1980年にもなると78と一気に減らしている。その時年齢37歳。年齢と言われたらそれまでなのだろうが、彼が46までプレーする事を考えたら年齢的な峠は過ぎていたとも、だからこそよくぞここまでともいえる。
三振に頼る必要のない投手になっていた。
ではどういう投手であったかというと、シンカーボールを駆使して戦う投手であったといわれている。ホワイトソックス時代はストレート、カーブをメインとして戦い、そののちにスライダーを覚えたといわれている。だと考えると若さと勢いに合わせて戦えていたのがホワイトソックス、ドジャースの頃といえる。
しかし1974年を境に彼は投手としてモデルチェンジせざるを得なかったことがこの辺りから読み取れる。現在と違ってリハビリ法も確立されていなかっただろうからケガをしたら基本は保存療法であっただろうし、おそらく球速はある程度の戻りこそしたものの若いころのようなボールは投げられなかったことを想像するのは難くない。シンカーもその過程で見るほうが自然だろう。
遅くなったストレートと手元で変化するシンカーが基本であったと読み取れる。
よく日本でのトミー・ジョン手術で三井雅晴の球速が戻らず、村田兆治の球速が戻った、と言われるがこれは誤解である。三井雅晴の時代にはまだトミー・ジョン手術のリハビリは確保されていなかった。それ故に一般生活は出来る程度の回復を見込まれるだけで投手としてどこまで復帰できるのか、というのは未知数だったのだ。なんなら村田兆治の頃ですらその傾向は残る。
現在のトミー・ジョン手術が多くの投手が肘から流した血とフランク・ジョーブが彼らの肘を切り開いたメスと、多くの頭脳と汗と涙の末に確立したものだということを忘れてはならない。現在に至るまで多くのことがあったのだ。
実況パワフルプロ野球でフランク・ジョーブを模したキャラクター、ダイジョーブ博士が「科学ノ発展ニ犠牲ハ付キ物デース」というが、まさにトミー・ジョン手術はその発展の犠牲の上に成り立っているのだ。その道は決して楽なものではない事をしっかり覚えている必要がある。
しかし30中盤まではしっかり曲がっていた変化球も37という年齢を迎え、様々な点が衰えていたとみてもいい。三振の減少はそのあたりからもうかがえる。シンカーなどで詰まらせたり、ひっかけさせたりといった戦い方でメジャーを生き延びていくことになる。
ある意味これからのトミー・ジョンは投手としての素質ではなく培ってきた技術で勝負していくことになる。
2,晩年
そんな彼も1982年、ドジャース以来舞い戻ったカリフォルニアの地、エンゼルスで11勝13敗という成績を残している。
そこにはヤンキースで同僚だったレジー・ジャクソンが中心となっており、フレッド・リン、ダグ・デシンセイなどが守る攻撃的なチームであった。
エースにジェフ・ザーンがいたものの投手は薄く打てるがあと一枚投手力が足りないチームであったことから年齢の若返りを図りたいヤンキースとのトレードになったと読み取れる。
事実この年エンゼルスはア・リーグを優勝しておりワールドシリーズの舞台に足を運んでいる。
トレード相手はデニス・ラスムッセン。1986年にヤンキースで18勝(6敗)を上げているところからお互いにとって有益なトレードであった。
翌年トミー・ジョンはエースとして立ち回るのだが11勝13敗と負け越している。しかも283被安打という彼の最後を思わせる内容であった。防御率もついに4点台に到達(4.33)。被本塁打11ということがうそのようである。
打たれないと全盛期に勝らずとも劣らないピッチングをするものの打たれ始めると止まらない、それが晩年のトミー・ジョンという投手だった。
それでもまだ完投9という数字が彼の投手力を物語る。
しかし、翌年にはそれも4と下がり7勝13敗。もうヤンキースでサイヤング賞に肉薄した男の姿はどこにもなかった。
1985年にはエンゼルスからも解雇。
近くオークランド・アスレティックスに拾われるものの成績は上がらず4勝10敗。傘下のマイナー、それもAクラスに落とされるなどどういう扱いであったか想像に難くない。その年に解雇されている。
もう誰もが終わった投手と思われた。
左ひじの腱が切れてからおおよそ10年。ある意味よくぞここまでやったものであった。
しかし、死に場所はここが最後ではなかった。
彼はまた、ニューヨークに足を運び、ヤンキースとの契約書にサインをする。
3,最後の灯が消えるまで
1986年、彼は再びストライプに袖を通す事になる。
尤もヤンキース時代もさほど期待はしていなかっただろう。
既にトミー・ジョンとトレードでストライプを着たデニス・ラスムッセンがエースとして君臨しつつあった。ただジョー・ニークロやロン・ギドリーが段々と成績を落としていた事からローテーションでは彼らの繋ぎとして活躍できればいいだろう、くらいの勘定であった事は否めない。
事実彼が登板したのは13試合。事実最初はヤンキース傘下のAクラスフォートローダデールで二試合投げている。その大半が20代前半に構成されるフロリダ州リーグでは異例の43歳が登板した事になる。
5月7日にロースターに復帰後、ホワイトソックスのフロイド・バニスターと投げ合って勝利。これ以降彼はマイナーのマウンドには立っていない。
この辺りで引退も見えていただろう。
事実1986年11月にはフリーエージェントになっており、翌年1月に再契約している。ヤンキースにとっていてもいなくても構わない程度の投手であった。
しかし1987年、先発陣が崩壊。デニス・ラスムッセンが不調、トレードで取ったリック・ローゼンだけが気を吐く状態。力の衰えたロン・ギドリーにも頼れないまま先発不足が露呈する。
そこに立ち上がったのがトミー・ジョンだった。
開幕投手がラスムッセンであった事から今年もラスムッセンを中心に他の若手が出てくるまでロートルでつないでいく、という先発戦略であった事は容易に読み取れる。事実ヤンキースは先発が一年単位で出てくるがその後定着しない。ラスムッセンも87年途中でシンシナティ・レッズにトレードされる。
それほど先発が安定しないのだ。
それでなぜかトミー・ジョンがそのままエースに繰り上がっていく事になる。
この時44歳。13勝6敗。完投こそ3試合と減ったもののこの頃辺りからブルペンの考えが本格的に台頭してきた事もありイニングも200イニング切るものの7の勝ち越しを許す。
皮肉なものである。
この年成績の低下するジョー・ニークロがミネソタ・ツインズへトレード。年上のトミー・ジョンが彼を送り出す事になる。彼も1988年に引退。同じ88年にヤンキースのエースであったロン・ギドリーも引退。多くの投手を見送る事になった。
同じくらいの頃にはヒューストンで4歳年下のノーラン・ライアンが追いつつも元気に投げまくっているくらいで同じころに活躍した選手はほとんど引退してしまっている。
アトランタ・ブレーブスを支えたナックラー、ニークロの兄フィルも1988年に引退。ミラクルメッツの立役者トム・シーバーも1986年に引退し、彼やノーラン・ライアンに隠れがちなミラクルメッツの隠れたエース、ジェリー・コースマンも1985年に引退。1982年には同じくチームで投げていたルイス・ティアントも引退。
1960年代から顔を出したエースたちが段々とその新陳代謝の波にのまれていた。
その中でトミー・ジョンだけが生き残った。
1988年も176.1イニングと年齢を思わせない投球で9勝8敗。二番手にいる。
しかし、そんなトミー・ジョンが生き残れてしまうほどヤンキースは弱かった。
1987年の4位から88年5位、翌年89年も5位と完全に低迷してしまう。
チームを支えるエースの登場は95年アンディ・ペティットまで待たなければならない。
そんなトミー・ジョンも89年ついに活躍できなくなる。
10試合登板して2勝7敗。
最終試合は1989年5月27日。
奇しくも相手はヤンキースがトレードに出したエンゼルスであった。
5.1イニングを投げ5失点の大爆発。ビル・シュローダーに2本の本塁打を打たれ轟沈。なお、シュローダーのこのシーズン本塁打は6本し翌年にはメジャーの舞台から追われている。2イニング目と5イニング目に1発ずつ。
介錯といわんばかりであった。
そして5月30日にリリース。以後どの球団も取る事なく引退する事になった。
ちょうど46歳の誕生日を迎えた5月22日のプレゼントといわんばかりであった。
4,その後
この後トミー・ジョンはミネソタ・ツインズのブロードキャストを数年したのちピッチングコーチとしては2002年リスバーグ・セネターズに投手コーチとして入団。そこには若きクリフ・リーの姿もある。クリフ・リーはこの後クリーブランド傘下に行きその年のうちにメジャーデビューを果たす。彼がどこまでクリフ・リーを教えたのかは分からない彼が在籍してから7勝2敗という成績を残している事から何かしら得たものはあったのかもしれない。そして彼が得られなかったサイ・ヤング賞を2008年獲得している。
2003年エドモントン・トラッパーズに移籍。2004年にはスターテンアイランド・ヤンキースの監督をするものの13位と転落。この年限りで解雇されている。4試合のみだが21歳のフィル・コークが選手としていた。
その後出世レースから外れたか独立リーグ。アメリカンアソシエーションのブリッジポート・ブルーフィッシュの監督として2007年から3年監督をしている。
彼最後のシーズンである2009年、近鉄でも投げていたヘクター・カラスコがいたくらいであとはどこにでもあるチームであまり勝てていない。
こうして彼の野球人生は終わった。
5,終わりに変えて
三週にかけてトミー・ジョンという選手の野球人生を追ってみた。
多くの野球選手が壮絶な場面で投げ、活躍をする一方でその新陳代謝に飲み込まれて行くが、1960年代にキャリアを始めた彼が90年に差し掛かろうという場所まで投げ続けたのは改めて知られる事実であろうと思う。
現在では多くの投手のみならず選手がトミー・ジョン手術をTJと言い換えて手術をしているが、それは彼が不死鳥のようによみがえり、キャリアの多くを手術以降に獲得したからに他ならない。
フランク・ジョーブがいなければ今日のTJはなかったであろうが、トミー・ジョンの活躍がなければTJ手術を手軽に受けようとする光景はなかっただろう。もっと慎重な扱いであったはずだ。それこそ村田兆治がメスを入れた時のように。
彼なくして今日のTJ手術はなかったと言っても差し支えない。
サイ・ヤング賞こそ手に入れていないものの彼の活躍は多くの選手をまた投手の道に復活させるきっかけとなったはずだ。
一方でこの度調べていて思ったところがある。
トミー・ジョンという選手はかなり強気な人間性を持っていたのではないか、という事だ。
彼が活躍した一方、投手として活躍した1979年などサイ・ヤング賞に一歩及んでいない。マイク・フラナガンも確かに良い投手ではあるが、手術から復活し、ヤンキースでエースとして活躍するというほどの物語を持った投手が取れないのは違和感がある。
そこにはドジャースからヤンキースへフリーエージェントしたときに発した「私は勝つことが好きだ」のような投手としての矜持を求めるあまり、敵を作ってしまう事になったのではないかとも思う。
それは時に投手として強い力を持ち、その負けん気の強さが46という年齢まで活躍できた要素でもあるが、一方でブロンクス・ズーの体現者の一人であるレジー・ジャクソンのようにどこかその気の強さを好まない人々がいたのではなかろうか。
そうでなくともフリーエージェントというものに懐疑的であった時代である。強気な性格、名誉と金のためなら球団に砂をかけて去っていくような姿を心よく思われなかった可能性がある。
そういう俺様体質が監督となっても全く活躍していないところに関係しているかもしれない。良くも悪くも闘志が彼を支える一方、彼を邪魔したともいえる。
これはあくまで想像である。
長く投手を続けている事もあり、多くの文献を追う事は出来なかった。
恐らく掘り起こせば多くの事が出てくる投手であろう。長くエース級の投手を続けるという事はそういう事でもある。
調べれば調べるほど、もっと違った事を知る事が可能であろう。
恐らくそれは多くの野球を知りたいと思う者がやる事でもあると思うので、それの一助になればと思いながらここで終わる事にする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?