コミュニティーナース 荏原 優子(えばら ゆうこ)さんにインタビューしてみた!
荏原優子さんのインタビュー動画は画像をクリック⏬
Q : 看護師を目指したきっかけは?
幼少期は喘息持ちでよく家の近くのクリニックに通っていて、看護師がすごく身近だったんです。いつか人を助ける仕事をしたいなと思って、出てきたのが看護師でした。
中学3年生の時に、自分の仕事をどうしようかと悩んでいたときに、「無医村の優しい人たち」というのを教科書で見つけて読んだんです。
青年海外協力隊でアフリカに看護師として行って、何もない中で人々の健康を守る姿を読んで、純粋にかっこいいなと思い、自分もこういう仕事をしたいなと憧れ、看護師を目指したのがきっかけです。
Q:簡単な経歴をおしえてください
総合高校で、普通科の授業+専門的な授業(基礎看護学、看護基礎、看護技術の基礎1くらいの授業)がありました。
高校の時点で看護のことや保育のこと、あとは海外に行きたいという思いがあったので、国際協力とか勉強させてもらいました。
大学に進学するときの面談の時に、医療をずっとやるというところで医師の道と、看護師の道と、大学に進学しないで世界1周しようと思ったときに、世界1周は先生と親に猛烈に反対されて、仕方なしに、まずは手に職をつけようと思って進んだのが看護の大学でした。
その時、進学の準備も遅くて、推薦枠のある神奈川県の大学を受験しました。そのあと、大学の近くにあった総合病院(900床)の救命救急センターで5年働きました。
Q : 救命救急センターは大変だったんじゃないですか?
私自身、救急がやりたいというよりも、地域医療をするために救急しますという感じで行ったので、けっこう救命っていうものに自分の中で悩む部分がありました。
命を救われた方がどういう経過で家に帰るのか、そもそも救急で来るような状態になる手前で救えたんじゃないかな。っていうジレンマを感じながら5年間働いていたんです。でも看護師として尊敬できる先輩達にたくさん出会えたので楽しかったです。
インタビュアー:疲弊しない、志を持って看護師で働けるには、こんな先輩になりたいという理想の看護師に出会うことがすごい大事だなと思います。
荏原さん:すごいわかります!
プリセプターだった先輩が人としても看護師としても尊敬できる先輩だったんです。
そのまま臨床看護っていうより一度地域に出てみたいと思っていたときに、父親に末期ガンが見つかりました。医療の現場で働いていたときは疲弊していたし、親のこともあまり気を使えず、異常にも気づけなかったことで、自分の中でモヤモヤが出てきました。
何で看護師を目指したんだろうと振り返っていた4年目くらいの時に父が亡くなり、私はこのままこの病院で看護師をしていていいのか、これが私が本当になりたかった看護師像なのか、って悩んだときに電車の吊り広告で青年海外協力隊の広告を見て、ここに一旦戻ろうと思いました。
ここに戻ったら自分がしたかった看護活動が見られると思って、5年目が終わる頃、3月に退職し、4月に訓練を受けて、その年の7月にバングラディッシュで2年間看護活動をさせてもらったんです。
Q:具体的にどんな活動をしてきたんですか?
国際的に医療協定が結ばれている所って看護行為ができるんですけど、バングラディッシュはそれが結ばれていないので、看護師としての医療行為は一切できない国でした。公衆衛生的なところで、予防医療とか啓発、病院の環境改善という部分で介入してほしいとJICAでのプロジェクトのサポートをするボランティアとして入りました。
母子保健のプロジェクトで、ミッションは新生児死亡率の低下と妊産婦死亡率の低下。病院環境の改善により看護師の仕事効率があがると処置も早くなるなど、どのようにできるのかっていうところで技術アドバイザーとして入りました。
楽しいけど、医療行為ができないことがこんなにしんどいんだなって思い知ったんです。
現場で働いている看護師は自分よりもベテランで、歴の浅い看護師が外部から病棟が汚いとか、整理整頓しろとかずっと言っている状況でした。
看護師も少なくて、バングラディッシュは夜間帯は50対1くらい、昼間も20対1くらいの配置になっている中で、これしなさい、あれしなさいって言うよりももっと一緒に自分ができることで手を動かすしかないなって思っていました。
診療の補助業務は家族がやっていて、その業務をよりよくできることが患者さんの療養につながると思い、患者家族の教育として、クリティカルパスをつくりました。医療の流れや、こういう計画の中でどう患者さんが動いているのか、食事で気をつけることなど、2年間中心にやらせてもらったんですよね。
もっと早めに来てくださったらもう少しいい治療ができたなっていうのが、向こうでもたくさんいたので、病院だけではなく、農村に足を運ばせてもらって、自治会とかでこんな危険な信号が出たときは必ず病院に行ってねといった啓発とかさせてもらいました。
最終的にはNGOと一緒に啓発のビデオをつくって、政府の方にもビデオを使ってくださいという所までやらせてもらったので、すごい充実感のある2年間だったんです。
Q : コミュニティーナースはどこで知りましたか?
バングラディッシュは人口に対する医療者の割合がすごい少ないんです。医療を提供をすることに限界を感じた政府が、一次予防に力を入れて、6,000人に1人の配置で、小さなクリニックを作っています。
医療についてちょっとした知識があり、健康について予防力がある人が一次医療を提供していて、不思議なのがその人達が診療所にいるだけでなくて、外にどんどん出て行くんです。
自治会に顔を出したりとか、自治会のメンバーを集めて月1回会議をしたりとか、この病院をどうしていこうとか、地域の中にお産をする人いるのかなって情報をどんどん取っていくって取り組みはしていました。
その中で危ない人には早い段階で病院につなげ、その前段階で予防できる人たちには、予防のための知識を伝えるという仕事をしていて、まさにこんな仕事がしたいなと思っていました。
JICAでは帰国説明会と、就職のマッチングみたいなイベントをやっているんですが、日本に帰ってきたタイミングで、就職報告会で自分の話をさせてもらいました。その報告会が、自治体職員との交流会だったんです。
海外での知識を活かして何か地域で貢献してほしいという思いを持つ自治体の人たちが集まった中に、島根の定住財団の方がいらっしゃって、私の活動を聞きながら、「あなたコミュニティーナースって活動知ってる?」「島根でそういう動きが出てて、まさにあなたがやってきたこととすごく近いことだと思うから、それを知ってもらいたい」などと声をかけてもらいました。
その当初はコミュニティーナースをやっている代表の方の名前を聞いて矢田さんって芸能人の名前かなーと思ったくらいだったけど、自分の中で日本の医療を取り巻く環境とか地域どうかなって調べて勉強しようと思ったときに矢田さんのこと調べたら、ちょうどコミュニティーナースの養成講座をやっていて、東京で開催していたんですよね。
私は養成講座2期生。一期生が終わった頃に帰ってきたところでした。
今はもう、8期生?9期生の募集が始まるとか・・・
後半へ続く・・・。
コミュニティーナース*荏原 優子さん
<ナース歴>
救命救急センターで働いていた時に、病気になった後の人が来る病院にいては、「本当に救いたい人を救えない」と気づき、青年海外協力隊に参加してバングラデシュに渡りました。
そこで、病院は少ないけれど、医療の知識を持っている人が生活の中にいて、地域医療が形になっていることに驚き、日本に帰ってからコミュニティナースの活動を知りしました。
<現在>
地域ですでにある取り組みの枠の中で、また自分でいろんな現場に飛び込んで行き、さらに住民としての立場で、縦横無尽に動き回って地域の方々と接点を作り、病気の方の役に立ったり、
地域の中に自発的な動きを生み出せるように活動しています。
コミュニティーナースとは→https://community-nurse.jp/