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なぜいじめられたのか。深堀りした先に見えたもの。

私にとって、間違いなく大きなシコリのようになっている出来事。自分の中で消化できているようで、多分できていない過去。

この過去を本当の意味で手放したくて、noteを綴る。

誰のためでもない、自分のために。

自分のためならなら、日記でもいいのでは?わざわざSNSで公開する必要があるの?と思われるかもしれないけれど、あえてSNSで公開してみる。それは、Twitterで2万以上のフォロワー様がいて、Voicyでも発信している者として、今後に影響が出ると思ったから、あえて公開する。


遡ること、16年ほど前。希望と期待を胸に初めて就職した病院で、いじめは始まった。

ロング日勤(通常の日勤よりも+3時間くらいの日勤)を終えて、リーダー看護師に挨拶をして帰ろうとした時のことだった。

「話があるから、残っておいて。」

そこから6畳もない、テーブルと椅子が3脚置かれた、面談室に通された。
目の前に座る先輩。表情はとても険しい。

先輩が開口一番に言った言葉は、「私に何か言うことない?」だった。
その日1日の自分の行動を振り返り、一生懸命言葉を選んで、出た私の言葉は「今日は特にありません。」だった。

その直後、先輩は机を叩いて、「うそ言うんじゃない。私、知ってるんだから」と怒鳴り出した。何をかと問うと、「心電図を取っていない」と言ってきたのだった。

具体的に患者さんの名前も言われた。でも、紛れもなく、私は心電図をとっていた。病室で心電図をとり、血圧や体温などバイタルサインをとっている最中に、別の先輩が覗きにきてくれて、心電計は片付けてくれた。でも、心電図は私が間違いなくとっていた。

さすがに、嘘はつきたくなくて、「心電図、取りました。片付けてくれたのば別の先輩です」と伝えるが、鬼の形相のような先輩は聞く耳を持っていなかった。「嘘つくな」の一点張り。片づけてくれた先輩や、患者さんに確認すれば一発解決なのに、それすらもしてもらえず、そこから1時間、説教をされた。話は飛び火し、ナースコールに出ないとか、よくわからない言いがかりもつけられた。

泣きながら「これから私はどうしたらいいですか?」と訴える私に、「あなたはもう無理よ」と言い放った。

そこから約3ヶ月、勤務時のいじめが始まった。

カルテ隠し、担当患者は、部屋がとても離れたところの重症な人ばかり。検査や手術予定の人を多くつけられ、どうやっても時間配分ができないレベルの担当とつけられた。そうすると業務に支障はもちろん出てくる。

同期が手伝おうとしてくれても、「中村の担当患者なんだから、手伝うな」と、平気でナースステーションで言われ続けた。

毎日毎日、私は遠くに住む母に電話をした。

「明日、行くのやめていい?」「今日、休んでいい?」と。

でも、私は休めなかった。休んだ後、仕事に言った時に、先輩から何をされるかが分からなくて怖かったのだ。殴られたり蹴られたりの、身体的な暴力はなかったけれど、言葉や態度での精神的暴力が酷かった。

誰もいない病室でよく泣いていた。


でも、私は看護師として、資格を持ってお金をもらっている以上、適当なことはできなかった。目の前には病気で苦しんでいる人がいた。いつでも笑顔で頑張ろうとしていた。

それも気に食わなかったらしい。容赦無く攻撃は続いた。

それから3ヶ月が経ち、秋面談。師長から「最近、どう?」と聞かれて、全てを話した。師長からは「私、全部知っているわよ。あなたからSOSが出るまで、何もしなかったの。」という言葉だった。

知っていたなら、どうして、助けてくれなかったのか・・・。単純にその一言が頭に浮かび、信用も信頼もなくなった。


それから事実確認が始まり、心電計を片づけてくれた先輩も証人となり、患者さんにも事実確認に協力してもらい、私が心電図をとっていたことが明らかになった。

いじめの主犯格だった先輩から、また呼び出された。

先輩は泣いていた。「ちゃんと事実確認をしなくてごめんなさい」と謝罪の手紙も3-4通もらった。

私は、許すしかなかった。文句の一つも言えればよかったのかもしれないけれど、何も言えなかった。

そのあとは、先輩とは多少ギクシャクはしていたが、ほぼ普通の関係に戻ることができた。ただ、私の心には大きな傷だけが残った。


起こった出来事は、これだけのこと。

心電図を取った、取っていない、という事実だけで見れば、私は100%
悪くなかった。心電図を取っていたからだ。


でも、ここからが問題。
私は、なぜこんなに、この先輩の標的になったのだろうか。

先輩が勘違いしたとはいえ、ここまでのイジメになるには、何か他に理由があったと思う。

まず一つ目が、新人らしくなかったという点。私は、プライドも正義感も強い方で、人に甘えることがとても苦手だった。だから、「わかりません」や「助けてください」と言えない、言わないタイプだった。

先輩からしたら、可愛げがなかったのだろう。人は教えたくなる生き物だろうし、頼られたい生き物だと思うから。もちろん、どうしても分からないものは、先輩にも聞いていたし、頼っていた。

次に二つ目、医者にも患者さんにも、患者の家族からも頼りにされていたという点。新人ではあったものの、常に誠実に関わろうとしていた。忙しいと適当に対応しているスタッフが多い中で、可能な限り心に寄り添おうとしていた。

それは、高校生の時に末期癌の祖母の入院先の看護師が適当だったから、私にはどうしても適応にしたくないという思いが強かった。

患者さんや家族から指名はよく入るし(もちろん、指名制はない)、医師からの信頼も高かった。

私が一年目で入った病院は、若手の医師が出向という形で研修に来ており、若くてイケメンの医師がいると、誰が付き合うか、医局に呼び出されるか、誰と誰がエレベーター内で何をしていた、など、毎日ほぼ何かしらの噂が流れていた。

それくらいに、女の世界だった。そこで、媚を売っていたように見られたのかもしれない。

当時の私は、患者を守るという点では強かったと思う。言い返すことは出来なくても、命を預かっている以上、適当には出来なかった。

でも、間違ったことをされた時に、「間違っています」と言い換えることは出来なかった。それは、知識不足や、技術不足、経験不足などから、反論するに至らないと感じていたからだと思う。


そこからの私は、狂ったように看護業をした。休みも、夜勤の前も後も、看護師バイトをした。メキメキと経験も知識も増えていった。

しかし、では言い返せるような強さを持てたかというと、全く違っていた。逆に、もっともっと・・・と学ばないといけないと何かに取り憑かれたように学び続けた。

今となっては、とても大きな武器になっているけれど、かえって自分を苦しめることもあった。


私はどこか、人に頼れない節がある(まずは、自分でやってみよう精神が強く、そしたらある程度できて困らなかった)。

そして、違うな?と違和感があっても、それを相手に伝えることができなかった(これは自分の中での違和感で、私が間違っているのかも?と思う傾向があるから、対等に話せるようになるまで、調べて調べて、それまで何も言えないタイプ)。

そして、言葉に過剰なくらいに敏感。言葉の選択、言葉尻、口調、抑揚もそうだけど、文章でも、その人の心がなんとなくわかってしまう。それは過度なくらいに、自分の色眼鏡を通しているのもわかった上で、自分を守るために身についたセンサーだと思う。

そして、嫌われるのに異常なまでの恐怖心。小学校の頃は、転校先の学校で、授業中に手を挙げただけでいじめられた。クラスイチかっこいいと言われていた男の子に「好き」と言われただけで、親衛隊の女の子たちに、男子トイレに閉じ込められた。何もしなくてもいじめられたこともあった。だからこそ、嫌われたくないという思いが人一倍強くなったのかもしれない。「これ言ったら、傷つくかな?嫌われるかな」と思ったら、何も言えなくなっていった。でも、厄介なのが、何も言えなくて静かにしていればいいのに、好奇心は旺盛だから、行動するし、常に学んでいたいから、外にも出ていく。正義感も強く、命がかかっていることで間違っていることはどうしても許せないから、その時はちゃんと言う。という部分を持っていたから、すごく偏ったタイプだったと思う。


でも、やっぱり、どこかで本当に自分らしくいられる場所や、信用できて、信頼できる人や仲間がいて、人と繋がっていたい自分がいた。

いじめてきた人と、もう話すことはできない。今もし話せるなら、彼女がなぜ私をいじめることにしたのか、私が何かしてしまったのか、聞けるなら聞きたいと思うくらい。

でも、聞くことはできなから。自分で振り返ることしか出来なくて、このノートを書いてみた。

自分主観で書いてるから、どこか保守的な文章にもなっているけれど、全ての出来事には、理由があると思っているから。いじめられたのには、自分にも理由があると思うようにしている。私の何かが、相手の何か大切にしている価値観に反していて、結果としていじめという形になったのだろう。


あたらめて振り返ってみて。やっぱりイジメはだめ。
そして、相手を想い、大切にしたいという思いがあれば、価値観の違いはあれど、優しい世界は作れると思う。

いろんな人がいるから、合う合わないはもちろんある。色眼鏡で自分の都合よく見てしまう時もあるだろう。でも、本当に大切な人とは、必要なタイミングでピタッと出会えるはずだから。

それには、自分が日々何を考え、何を大切にしているのか、まずは一番近くにいる自分の感情にふたをすることなく、丁寧に向き合うこと。これが、大事なのかなと思った。


こんな気持ちになれたのも、最近私と出会ってくれた大切な人たちがいるから。彼女たちとの出会いも必然。いつ何かでまた縁が遠くなるかもしれないけれど、それもまた無理に考えすぎるのではなく、自分が大切に思いたいなら思っていたらいい。ただそれだけのこと。そんな風にも思えるようになった。

そして、まず一緒にいつもいてくれる自分を大切にする。ここだけは忘れちゃいけない。絶対に。そんな当たり前のことにやっと気づいた37歳。

明日からはもう少しだけ、生きやすくなると思う。

言葉の素晴らしさに出会い、生きる道を見つけました。私の発信や経験が、誰かの何かお役に立てますと、とても嬉しく思っています。いつも応援してくださり、本当にありがとうございます!