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短編小説「すいみん’」

 うねる波間に映った月は、バラバラのまま散らかった光のパズルだ。そっと、そのピースをつまみ上げるみたいに音もなく、彼女の尾びれだけが海面から覗いては沈む。それを防波堤から眺めていたら、僕の中で憧れのピースと嫉妬のピースが、ぴたり隙間なく合わさった。
 僕の足は二本も生えていて、どうしたって彼女みたいに、海と溶け合うようには水を掻けない。そんな彼女の尾びれだけがぬらり、海面から覗くたびに鱗がきらきら光る。縫うように泳ぐ彼女を、だから僕は見失わない。
 夜光貝の内側の、真珠層と同じ色。夜の空と夜の海との濃藍に見え隠れする、彼女の鱗の構造色が月明かりを虹色に変えた。

 男子校だった僕の志望校が共学になったのは、僕が無事入学したその年。別にそれが志望動機なわけじゃなく、この高校の水泳部に全国大会の出場実績があったからだ。
 彼女はクラスメイトで、隣の席で、この学校が人魚共学になってから、最初の魚生徒ぎょせいとのひとり。

「よろしく」

 と言って、小さく首を傾げ笑う彼女の頬は桃色珊瑚。その色をなんとなく直視出来なくて、曖昧に返事をかえし俯く。僕の視線を勘違いした彼女が、「ああ」と言って制服のスカートの裾を、指先の桜貝で僅かにつまみ上げてみせた。そこにあるのは、濃紺色のスカートの生地によく映える、砂浜みたいな白い足。それこそ目のやり場に困った僕は、黒板の上の丸い時計を見上げた。

「へ、変かな?」
「変、とは?」
「足」

 見上げた時計の針はなかなか進まない。意地になって眺めていると、なんだか白くて丸い時計の文字盤が満月に見える。そうなると、まだ何も書かれてない黒板は夜の海。月明かりに照らされて、魚が一匹海面から、跳ねる音まで聞こえてきそうだ。

「別に、変じゃない」
「よかった。恥ずかしながら高校デビューで」

 そう言って、夜の海辺で人魚ははにかんだ。

 中学時代は私立の魚子校ぎょしこうだったと言う彼女は「共学に憧れて」なんて理由でこの高校に進学し、僕のクラスメイトになった。
 そんな彼女は、授業が始まると白河夜船の左右の櫂を、こくりこくりと漕いでいる。魚は眠らない、なんてどこかで聞いた気がするが、どうも人魚は眠るらしい。
 一本の尾びれを二本の足に変える、魔法の薬の副作用。沈むように重い目蓋と頭が下がり、はっ、と眠りの海から顔を出して息継ぎする。
 水泳部に入るつもりの僕としては、ちょっと息継ぎのタイミングが多いな、なんて思う。それではタイムは上がらない。
 いずれにしても、陸に憧れた彼女は人魚姫と言うよりは眠り姫。そして当然、僕は王子だなんて柄じゃない。

 受験の間に鈍った身体は、思ったようには動かなかった。水泳部に入部し、こうして毎日プールで泳いでいても、県大会の決勝で掻いた水の感触が戻らない。中学三年間で培った水泳のエッセンスが、プール上がりのぬるいシャワーで、全部洗い流されてしまったようだ。
 まだ冷たい水から這い上がり、息を整えているとさらに身体が重くなる。
 魚みたいに泳げたら、そう思っただけで人魚の事を考えたわけじゃない。それでも体を乾いたタオルで拭きながら、フェンス越し、花壇の前でウトウトしたまま座る彼女の姿が目に入る。しゃがんだ彼女が持った、鈍い銀色のブリキのジョウロは、あらぬ方向に水をやり続けていた。
 いつだって、見かける彼女は波間に揺れる浮標だ。そんな彼女をひとりで帰し、何かあったら夢見が悪い。そういう理由で声をかけると、バーベキューの網の上のホタテ貝みたいに、彼女の眠たげな目がぱっと開いた。
 

 学校にいる時の姿は単なる怠けなんじゃないのか、と思うくらい彼女は颯爽と歩く。

「ねえねえ、水泳部なんだよね?」

 少し前を行く彼女がそう言って唐突振り返ると、細身の体を軸にして、スカートがひらり翻った。そして、遠心力で軽く浮かんだ濃紺の傘から、白くて丸い膝がしらがふたつ覗く。

「そうだけど、なんで聞く?」
「んー、泳ぐの好きなのかなって」

 そう聞かれると別に好きなわけじゃない、と思った。好きなわけじゃないけど、嫌いなわけじゃない。他の事よりちょっと得意なだけだ。

「そっちは。なんで園芸部?」
「人魚なのに?」
「もったいない」

 僕が言うと、指先の桜貝を顎に添えて彼女は視線を巡らした。そうして「花が好き、だから?」と答えた彼女に「その割にいつも寝てる」と返すと「確かに」と笑って寄越した。

 電車かバスか自転車か、そのくらいの距離を彼女の家まで歩いて送る。どうして交通機関を使わないのかと、質問を挟めないほど、彼女はぐんぐん歩く。なんの示し合わせもなく、途中のコンビニに彼女は入って行って「どれにする?」とアイスの什器の前で振り返る。
 南の海の嘘みたいな水色の、アイスの棒を手に持った、彼女の笑顔が夏の空を先取りした。

「すごーい。本物の魚子高生ぎょしこうせいみたい」
「本物ってなに。本物でしょ?」
「だってだって。男の子と、下校途中に、アイスだよ?」

 なんて言う彼女の瞳の色は、お伽噺を身振り手振りで熱心に話す、夢見る小さな女の子。
 実際、薬の効果が切れるまで防波堤にふたり腰掛け、僕が彼女に聞かす他愛もない話は、海中で暮らす人魚にとってはお伽噺と変わらないのかも知れない。僕にとっても彼女の話す海中での暮らしは、図書室で読んだSF小説そのものだった。

「ふふっ。隣の海は青い、だね」

 そうして、暗くなった空に月が輝く頃合いに、彼女ははらり、衣擦れの音をさせて制服を脱いだ。僕はわきまえて、横目だけでそれを視界に入れる。腰からすとんと落ちたスカートは消えない波紋で、彼女の素肌の足元に残った。
 その白くて細い足が、イルカのように推進力で張り詰めた尾びれに変わる。折重なる鱗は、揺れる尾びれの動きに合わせ、赤から紫、青から緑と複雑に色を変えた。シャボンの泡みたいな虹色だ。

「送ってくれてありがとう。また明日」

 防水バッグに制服をしまった彼女は、僕が言葉を返す余裕もなくとぷん、飛沫も少なく海に滑り込む。尾びれのひと掻きで、あっという間に素っ気なく、海中に帰って行った。
 
 防波堤に残されて彼女の帰った海を眺めていると、月明かりに照らされて、人魚がひとり海面から、跳ねる音まで聞こえてきそうだ。

 海沿いのバス停から乗った帰りのバスの中、月夜の海が窓の外を流れる。沖の方ではきらきらと、光る人魚が群れで泳いでいた。
 あの中に、この春出会ったクラスメイトは混ざっているのか。
 あんな風に自由に水を掻けたなら、とても楽しいに違いない。陸の上では身体は重く、彼女もいつだって眠そうだ。それでもきっと彼女は、明日も颯爽とこの道を歩いて登校するんだろう。

「隣の海は青い、だな」

 そういえば、男子の人魚はいないのだろうか。
 授業の合間の休憩時間、もし明日彼女が起きていたならば、試しにちょっと聞いてみよう。

(了)

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