夜明けの余韻 1st
淡い朝陽がカーテンの隙間から射し込み、細く伸びた光が枕の端を照らしている。絶望を感じるアラームや近所の人声に妨げられることなく目が覚めた。長い間味わえていなかった良質な睡眠を得られたことが何より嬉しかった。そして半分閉じた瞼を優しく撫でるようにもう一度夢の中に浸った。
二度寝なんて何年ぶりだろう。いつもなら一度目が覚めてしまったら、考え事をしてしまって全く寝れなかった。今日は心が落ち着いていて、脳内の僕は忙しくすることなく、動くことなく木々に寄りかかり、温かい木漏れ日を浴びて両足を伸ばし休息していた。
朝ごはんを食べていると、換気のために開かれていた網戸を通して鍵盤ハーモニカの音が聞こえてきた。秋の訪れを微かに感じる涼しく澄んだ風が懐かしい音色を澱むことなくそのまま僕の元まで運んできてくれた。しばらくその音を堪能していたが、御御御付けのお椀の底が見え始め、残り数口となった頃にはその音はいつの間にか止んでいた。
二種類の鍵を開けドアノブを下に押しながら扉に寄り掛かると、頑丈な扉が開く。いつもの見慣れた光景と八月の終わりとは感じられない湿度の高い熱気、蝉の大合唱が全身を包み、身体が更に熱くなった。「覚悟は出来ているんだろうな?」そんな声が聞こえた。「分からない」僕はこう答えることしかできなかった。
前を向くとき、砂袋の砂を掻き出すとき、弱虫を消すときは、今日このタイミングしかないと思っていた。
ごめんなさい。と天に祈り、少し混雑した電車に乗り込んだ。
………………
東京。
人口が日本で最も多く、圧倒的な摩天楼が聳え立ち、時代の最先端をいく。
今の時期だと蒸し暑い。燦然と輝く広告が騒がしく、視覚も、聴覚も疲れてしまう。僕にとっては不快な街だった。
けれど一人で寂しいとき、何だか辛いときは東京の街を歩き、癒されてきた。心が浄化され、ひとりではないんだと雑踏の中で感じた。誰かが生きているという騒がしさが不安な気持ちを搔き消してくれた。
とにかく現実逃避をしたかった。そしてゆっくり本を読みたかった。
本日訪れた場所は全てBISHのモモコグミカンパニーさんが紹介していたところだ。まだ彼女を好きになって日が浅い。魅力溢れる文章と、繊細な性根、少しあどけなさが残る表情に癒され、いつの間にか彼女の虜になっていた。SNSをチェックする回数も増え、彼女が生きているということをなるべく多く感じていたかった。そしてリュックには彼女の著書「目を合わせるということ」の文庫本が入っている。
最寄り駅の高円寺から歩くこと五分。
エトアール通りから路地裏に出ると、看板に「アール座読書館」と書かれているお店を見つけた。店前から醸し出される異質な雰囲気に身が縮む思いだった。
急な階段を落ちないようにゆっくりと上り、重たく冷たい扉を開いた。
空気が変わった。
ゴクリと息を飲んだ。確かに聞こえた。
無音。静寂。からっぽ。沈黙。
私語厳禁なカフェとは聞いていたがここまで静かだとは想像もつかなかった。
この時から僕の目に映る景色は夢を見ているかのような不思議な感覚に襲われていた。今、思い出してみても本当に行ったのか分からなくなっていたが、古びた財布に残っていたレシートが行ったことを証明してくれた。
店員が眼鏡を下に向けた。僕も合わせて人差し指を立てながら顎を引く。
空いている席はなかなか見つからず、うろついていると偶然空いていた席を見つけた。唯一空いていた窓側の席。そこに座り、一息ついた。
「土曜日のお昼だからだもんな」そう心で呟いた。
座ってしばらくは茫然としていた。
東京にこんなところがあるのかと。
昨日までいや、数時間前まであったストレスは頭からすっかり消え去り、ここの空気や音を肌で感じ取ろうと精一杯だった。
ブラウン色の棚が目の前に置かれている。そしてそこには手のひらサイズのメモ帳がたくさん並んでいて、本も数冊置いてある。小さな引き出しの中にもメモ帳が積まれていた。次の出番を待つメモ帳が入る隙間はもう無かった。
そして隣の椅子に座る女性の前には大きな水槽があって、ポコポコと柔らかい音がこの雰囲気をより居心地良くしていた。そしてその女性をちらりと見る。若い人でメモ帳に何かを書いていた。常連さんなんだろうか。
メモ帳にはどういうものが書いてあるのだろうとひとつひとつ手に取って読んでいく。一ページ目を見たとき睫毛が震えた気がした。心がざわめき、全身の毛が立った。
元彼が忘れられない話。上京した学生の葛藤。社会人が経験する社会の厳しさ。名古屋からの観光客。海外留学。大学受験。就職。精神的な病気。可愛らしい絵。
メモ帳には「2010」と書かれていたものもあった。十年以上前にここに来た人たちのも含めてここに置いてあった。残してくれたのだ。それを2022年に僕が読んでいる。こんなに目が熱く、胸がキュッとすることは今までなかった。
過去を生き、今を生きる人達の物語。
見事に情が動き、感動してしまった。
そしてどれも今の自分の状況を癒してくれる、温かい文章ばかりだった。
本当はこの場所で本を読もうとしたが、メモ帳ばかり見てしまった。けれどそれで正解だったと思う。
苦しいのは僕だけじゃなかった。みんなこの世界を必死に生きている。
人が書く文章は話すことより本音が滲み出る。
手紙や日記のエネルギーを存分に受けた。
入店をしてちょうど二時間後、僕は席を立った。
あの水槽の前に座っていた女性はどこにいるだろうか。
そればかり考えてしまった。
おそらく中学校の同級生だと思う。
なんだか嬉しかった。どこかで生きていることに。
奇しくも同じ中学に入り、同じ街の空気を吸った。
地元の、あの時の、あの瞬間の記憶が速い速度で巻き戻された。
僕にとってはまさに青春だった。
「僕のこと覚えてる?」
もしそう言ったらあなたはなんて答えただろう。
話しかけられない自分の情けなさに落胆しながらも、まだまだ始まったばかりだとスキップをし、両手を広げた。
そして次の目的地である阿佐ヶ谷まで総武線沿いをまっすぐ歩いた。
ぼろぼろだったハートマークがほんのわずか動いた気がした。
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