日記:過ぎゆく時の中で、何を選び取るのか
二日酔いからようやく醒めてきた。土曜日に酒を飲むときは、次の日の心配をしなくていいことが利点だが、あまりに飲みすぎると1日をふいにしてしまうことになる。それでも酒に縋ってしまうのは、きっとその先に自分の見たこともないものがあるのではないかと思ってしまっているからだ。でも、そういう場所に辿り着きたいのだとしたら、自分の足で1歩ずつ進んでいくしかなくて、アルコールの中に潜むものは仮初の泡沫に過ぎない。よいとか悪いとかそういうことではなくて、けれど性質の違いはある。
そういえば近く読書会をする予定だったのだが、課題図書にまだ手をつけていないことを思い出した。最近、自分が本を読んだりアニメを見たりする理由は、何かに駆り立てられてのことが多い。ライブに行くから予習としてアニメを見るとか、無料公開の期限が終わるまでに漫画を読むとか、ネタバレを踏んでしまう前に映画を観るとか、感想を話したいから本を読むとか。そうしなければ作品に触れられない自分が悪いのだろうか。無数に存在する作品の中から限られた時間の中で選び取って行くためには、「見たい」という欲求のほかに外部からの理由が必要となってしまうのだろうか。そういったフィルターを通さなければ、ただ「見たい」と思う作品の数に対して、平日の隙間や休日という時間があまりにも短い。限られた金銭と時間の中で、僕たちはどうあれ残酷な選別を振るわなければならない。
そうやって、闇雲な選択を繰り返して、濁流のように日々は過ぎて行く。不安は尽きないけれど、それを覆い隠していく事象の数々もまた尽きそうにはない。目の前の現実に必死にしがみついていたら、いつの間にか違うところに立っている。自分の現在位置などわからないし、目指す場所も見えはしない。そして、それをわかっている人のきっと多くはないのだと思う。人は自分が思い描くよりも近視眼的に現実を捉えてしまう。他者が俯瞰性を獲得しているように思えるのは、それがきっと無意識のうちに複数の他者を統合して形作られたイメージだからであって、他者のそれぞれ同じ人間だということを思えば、きっと自分と同様、生活の奔流に飲み込まれないように堪えているのだということが想像できる。自分が他者を救うことは叶わないし、他者も自分を救うことはない。人はそれぞれ孤独に生きていて、たまにその領域が重なるように見えているだけ。救われるとしたら、それはきっと1人で勝手に救われているだけなのだ。自分はそういう風に『化物語』の言葉を考えている。
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