日記:孤独と折り合いがつかない
iPadに外部キーボードを接続すると英字配列として認識されてしまうのだが、もう随分とそれに慣れてしまった。とはいえ()や「」といったよく使う記号の配置さえ覚えておけばなんとかなるのであまり支障はない。ただ、仕事では普通に日本語配列のキーボードを使っているのでたまに間違える。弊害といえばその程度であろうか。
寒の戻りを嬉しく思う自分がいる。まだ春へと向かう覚悟ができていなかったので(そそしてそれはいつまで経ってもできそうにない)、季節がまだ冬を忘れていなかったことに対して安堵する。あとは、冬のほうが着る服にバリエーションが出るので外を歩くのが楽しかったりする。でも春は春で暖かくなるし花も咲きはじめるので散歩が楽しい。
昨日は雨が降っていた。傘で守りきれないところが濡れてしまうのは好ましくないけれど、それでも雨そのものの風情というものは嫌いではない。世界がそれぞれ孤独になっていくような気がするからだ。どちらかといえばいつも孤独なほうである自分としては、世界が自分と同じになってくれたようで嬉しい。ひとりでいることは好きだけれど、それでも孤独を寂しく思うことがないと言われればそれは嘘になるから。
ならば孤独であることを捨てて集団の中に身を置くようにすればよいのではないかとも思うけれど、それはそれで疲れる。月並みなことを言うようだけれど、やはりひとりになる時間はどうしたって必要なのだと思う。
このとき、両者の間で感情の折り合いをつけるのが難しい。ひとりでいるときは孤独を寂しいと思うくせに、誰かといればそれを窮屈と感じたりする。2つの心が矛盾している。きっとどちらの自分も自分なのだけれど、その矛盾を突かれたとき、胸を張って正しさを主張できる自信がない。中途半端で後ろめたい道を歩いているのではないかと狼狽してしまう。きっと他の人のそうなのかもしれないけれど、それを証明する手立てもないから、自分だけがこんな自分勝手な懊悩を抱えている気がしてしまう。
孤独を愛する自分と、人との関わりを求める自分。そのスイッチを簡単に切り替えることができなくて、どちらか一方の存在を認めればもう一方が嘘になってしまいそうになる。だからずっと欺瞞を抱えて生きている。
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