日記:共感について

共感の正体とはなんだろう。

私にはあまり「自分」がない。それは共感によるものなのだろうか。「自分」がなく他者に影響されやすいことと、共感しやすいということは同一だろうか。


自分は誰かに共感するとき、自分に引き寄せて考える。そのとき、相手のことはあまり考えていない。自分がどう思うかを相手に当てはめて、それが同一であるときに「共感」という反応を返す。そこに相手への思いやりなどはない。哀れみや慈しみで共感をしているわけではないようだ。

他人のことをどこか自分のことのように考えている。それは決していい意味ではなくて、自分は自分のことをどうでもいいと思う節があるから、そこに引き寄せて考える他人のことも割とどうでもいいと思ってしまったりする。最悪だ。


少し前に読んだ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、「共感」を表す「シンパシー」と「エンパシー」の違いについて、次のように綴られていた。

つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。

—『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ著
https://a.co/8QAv8wD

ざっくりとした理解にはなるけれど、シンパシーが受動的な姿勢であるのに対して、エンパシーが能動的な行為であるように思える。

自分の共感はシンパシーなのだと思う。自分に近しい境遇に対して抱く共感だ。シンパシーの範囲をある程度の人に対して適応しているとは思うけれど、自分と全く違う立場に立って考えるようなエンパシーの能力は持ち合わせていない。自分の共感とは、つまるところ自分勝手な感情の押し付けに過ぎない。


自分と違う立場の他者を前にしたとき、理解も共感もできず、ただわからないものとして反発をしてしまうのが怖い。他者に無自覚な攻撃を向けてしまうのが怖い。今も知らないだけで、きっと誰かの想いを踏みにじっている。

すべてを尊重した振る舞いは難しいのかもしれない。多様性をすべて一つの世界の中で同時に成り立たせるためにはどうしても歪みが生じる。一つの領域を取り合うための衝突が起こる。

シンパシーをただ心の中で受け止めているだけでは何も変わらない。しかしエンパシーによって他者の背景に想いを馳せる力がなければ、自分とは違う存在の中を、違うままにして動いていくための感性を意識する必要があるように思える。でも、そのための道筋は素朴な共感から出発するのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?