日記:車の話
『ドライブ・マイ・カー』を見ました(以下、ネタバレあります)。
原作は村上春樹の『女のいない男たち』に収録された作品であるらしい。ということは短編〜中編くらいの長さなのだろうか。村上春樹作品は、『国境の南、太陽の西』を読んだことがあるくらいだけれど、そこで語られる人物の感情とか世界の捉え方がとても好きなので(ノーベル文学賞の候補にあがるくらいだからそれは当たり前なのかもしれないが)、いつか他の作品も読んでみたいと思いつつ読めていない。
オバマ元アメリカ大統領は毎年年間ベストの映画や本、音楽を発表しているらしいのだけれど(知らなかった)、その中でこの映画も挙げられていたようである。映画を好きな人たちの間では、毎年のこの発表は有名らしいのだけれど、そういうことを知らない程度には、自分は映画事情に明るくない。映画の賞を受賞しているらしいのだけれど、受賞作品をあまり見たことがないし……。『パラサイト 半地下の家族』とかまだ見れてないな……。
構成がすごくよかった。家福悠介とその妻の音の生活が描かれ、それが終わるまでが一区切りとなっている。そこからキャストとスタッフのクレジットが入り、これからが物語のはじまりであるということが示される。ストーリーをなにも知らずにみていたので、この夫婦の生活を軸に物語が進められていくのだろうと思っていた自分には、これはかなりの衝撃だった。そこで一段と作品世界に惹き込まれたように思う。
ストーリーとしては、家福が妻の喪失と向き合っていく、そして専属ドライバーとして家福の前に現れた渡利みさきが己の過去と向き合っていく、そういう話なのだと思うのだけれど、しかしこの2人はわかりやすく傷ついている訳ではない。悲しみを自分から表に出そうとはしないし(家福はおそらくプライドのようなものの故に、そして渡利はおそらく生い立ちからあまり他者に心を開こうとはしない性格故に)、それに自らの仕事をしっかりとこなすことができている。仕事とはすなわち生活の糧のために行うことではあるが、しかし労力を提供する代わりに他者からの承認を得るという意味合いも持つのであり、仕事を通じて社会と関わっているという状態はすなわち1人でも生きていくことができる力を持っている状態であることを示している。この作品が「過去から立ち直るための物語」を描いたのだとすれば、しかし立ち直らずとも既に独り立ちしているだけの力は2人にはあるのだ。家福は舞台の世界においてその実力を評価されているし(国際的な演劇祭の審査員を務めたり、演出を手掛けたりしている)、渡利もそのドライバーとしての腕に自信があり、専属ドライバーを任されるほどに他者から認められてもいる。
では、この物語に意味はなかったのか、最初から2人には救いは必要なかったのかと言われれば、そうではない。誰しも人は痛みを抱えて生きている。それは誰かに打ち明けることができない。痛みの形はそれぞれで、話したところでなにかが変わるわけでもないからである。救いは自分で見つけるほかない。
家福は遠ざけていた舞台の上に再び立った。渡利は海外で1人暮らすようになった。その変化が起こったのは、2人が過去と向き合い、心に整理をつけたからだろう。そしてそのきっかけは、2人が出会ったことにある。同じく過去に決別できない痛みを抱えた2人だからこそ、お互いの痛みを知り、そこから自らを過去と再び向き合わせることができた。
過去に蓋をしたまま、生きていくこともできたのだと思う。そういう強さを2人は持っていた。
過去が変わることはない。それを傷のまま抱えて生きていったとしても、向き合いかさぶたを剥がしたとしても、現在という時間軸ではあまり変わることがないのかもしれない。だが、2人が過去と向き合う姿は、きっと同じように過去を傷として抱える人を勇気づけるのだと思う。そして、誰しも人は痛みを抱えて生きている。だからこの映画は、生きていくことそのものへのエールでもあるように思う。
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