日記:学びある人生
『喜嶋先生の静かな世界』を1章まで読んだ。
まだ序盤ではあるもののとても面白い。事象の記述と人生観的な思想が入り交じりながら進められていくのだが、それが全く読みづらくない。むしろ両軸を合わせることで、起きた事象に対する主人公の疑義とそれが解消されていく様が綺麗に理解できるようになっているので、腑に落ちながらページをめくることができる。
1章は、まず主人公の幼少期から大学までの内面を簡単に綴ったうえで、4回生となって研究室に配属されてから研究に没頭し世界が開けていく様子が描かれている。このような誰かの人生を追想するような物語はとても好きだ。モノローグに没入しながら読み進めていると、いつの間にか他人の人生を体験しているかのような感覚になる。
作中で語られているような研究の視点を、自分が大学にいた頃に持てていたかというと明確に否である。与えられた課題や講義の理解で精いっぱいだった。大学に入る前は、世界で動いている仕組みの構造が理解出来たらいいなという思いを抱いていた気がしたものの、その理解に至るまで見識を深めることができなかった。自分から新たな視点を獲得していこうという能動的な視点が欠けていたし、そもそも受動的に聞いていただけの講義も殆ど理解していなかったように思える。
それでも、自分で考えることが大切だと思った経験が一つある。講義のはじめの方の回で説明された概論の内容がなんとなく腑に落ちなくてずっと疑問に思い続けていたのだけれど、それが後半の回で詳細に入った際に、自分が抱いていた疑問と同じものが講義の中で解説されていた。自分の疑問は正しかったというか、先人と同じ視点を持てていたことが嬉しかった。
とても些細な体験ではあるが、自分の中ではそれなりに衝撃的だった。そのとき、ただ教えられたことを覚えるのではなく、自分で考えるということの大切さをぼんやりと実感した気がする。それからは、小さな疑問を自分の中で育てていくことをできるだけ大切にしようと思った。
とはいうものの、そこで自分が学術的な興味を発揮して特定の領域を掘り下げていくということはなかった。講義に対する受動的な姿勢もすぐには変わらなくて、気付いたら卒業に必要な単位を取得しきっていた。単位を取るための勉強に終始してしまっていて、いま振り返るともったいなかったかなと思う。大学に入る前は、自分が何を学びたいかということもよくわかっていなくて、進学すればわかるかなと気楽に構えていた。しかしそれが大学在学中の4年間で見つかることはなかった。モラトリアムを消費しきって、今も自分が何を知りたいのかを掴み切れずにいる。
1章の中でも綴られていた、大学における学びの姿勢について、似たことをQuizKnockの山本さんがインタビューの中で言及されていた。
ただ、学生の頃に後悔していることもあって……。中学くらいまでの勉強は覚えたことがそのまま問われるのが一般的だと思うのですが、それが高校・大学と徐々に通用しなくなるんですよね。僕はそれに気づくのが遅かった。それからは自分から学んで、考えて、応用していくという勉強を大切にしています。
膨大な知識を持つ人でもこのような後悔を抱くことがあるのかと思うと、こうした現象は多くの人に当てはまるものなのかもしれない。
考えてみれば、小学校に入った時から、何故か当たり前に行われている授業に疑問を差し挟むことなく、ただ授業で言われたことを必死に覚えてきた。「1+1=2」であることを、何も考えずに受け入れてきた。授業がそうなっているのは、社会で生きていくのに必要となる常識的な知識を身に着けるためには、とりあえずロジックがわからずとも「ただそうである」ことを覚えさせてしまうのが効率が良いから、なのかもしれない。
答えが何故そうなるのかを理解しないまま、覚えたままのことを答案用紙に書きつけていく様は、まるで「中国語の部屋」の様である。部屋の中にいる人は中国語を理解していないのに、外部への出力だけ見れば中国語を話せているように見える。
ただ知識を総覧して暗記していく段階は、いまこの世界がどんな形をしているのかを知る段階に過ぎない。研究とは、それらの知識を前提としたうえで、未知の領域へと一歩踏み出す行為であるらしい。しかし実際には、世界の形をただ覚えるだけでも難しいし、だからこそ、その知識を覚えて使う能力というを指標として用いることも一定の有効性を持つのかもしれない。でもそれは、研究とは違うものである。
「学ぶ」とはなんだろう。学問に対して能動的に取り組むこと、と自身の体験から引き出した言葉であらわしてみる。それは先人の研究をなぞることではないだろうか。ただ結果のみを暗記するのではなく、なぜ先人がその結果に辿り着いたのかということを理解すること。その道のりを「学ぶ」というのかもしれない、となんとなく考える。新しい発見は、先人の発見の集積の上に立っている。そこに至るまでの、巨人の肩に立つための行為を「学ぶ」と呼ぶのかもしれない、と学びのない自分はぼんやりと思う。
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