日記:読んでいない本

「最近読んだ本は?」という話になって、最近とんと本を読んでいなかったので困った。しかもその場では「本をよく読んでるっぽい人」という立ち位置になってしまったので、何かしらエピソードを捻出しなければならない。そういうわけで、買ったけど読んでない本を、「まだ全部読んでないんだけど」という前置きをして話した。

書店で見かけてつい手に取ってしまった。なぜかというと、帯に書かれていた一首に見覚えがあったからだった。その昔、Twitterで見たことがあった。

正確には、これを直接知ったのではなくて、それをパロディした呟きを先に見て、そこから知ったという経緯がある。

僕もSafariのタブ500開いてるし、なんならiPhoneとiPadで合わせて1000開いている。MacBookAirのSafariはまだ綺麗に保たれている。この違いは何だろう。

さておき、なんだかその再会が嬉しくて手に取った『水上バス浅草行き』だったが、まだ読めていない。だから知っているのは上記の一首のみ。それだけを頼りに、この本の良さを語らねばならない。さてどうするか。

「短歌」、そして「短歌集」という存在について話した。つまりは、「自分が短歌についてどのような点を魅力に思っているか」、そして「31音で世界を切り取る短歌が集められた本であることの特性」について。これならば、たとえ一首も読んでいなかったとしても話ができるし、嘘を語る必要もない。

自分は、唯一知っている(そして覚えている)一首について、その魅力(人が意識しない部分を鮮やかに表現する視点と技術)、それから「1つ1つがすぐに読めるから、どこから読んでもいい」という短歌集の性質について話した。「まだ全部読んでないんだけど」というのも嘘ではない。一首しか読んでいないだけで。

しかし、たとえ読んでいなかったとしても、読みたいから手に取った本については、そこに自分が思い描くその本の理想像がある。期待があって、それと本の内容が近似しているように思われるからこそ、人は本を手に取る。だから、読んでいないまでも、その内容が頭に浮かべられているものがある。ある意味でそれはとても美しいものかもしれない。言葉にすら落とし込まない(落とし込めていない)、ただ憧憬の輝きがそこにはある。読んでいない本を語るのであれば、だからその輝きについて話せばよい。そこにはどこまでも自分勝手な、理想像が詰め込まれている。

そういう話が『読んでいない本について堂々と語る方法』に書いてあるのだろうか(読んでいないのでわからない)。

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