日記:この世のすべてがほしい
年初の日記に「今年の目標は節制」みたいなことを書いた気がするのだが、ここのところ散財が激しい。主な出費先は「アニメのBlu-rayやゲームの限定版」や「ソシャゲの限定ガチャへの課金」が大きい。要するに限定という言葉に弱い性質がかなり悪い方向へと伸びていて、前者はともかく後者はいい加減不健全なので解消したい。とりあえずしばらくは懲りたので大人しくしているつもりだけれど、次またいつ再発するかもわからない。その前に誰か私を殴打してでも止めてほしい。
この世のすべてを手に入れることはできないし、この世のすべてを知ることはできない。そんな世界、生きている意味はあるのだろうか? そういうことをたまに考える。全か無か。0か1か。すべてを手に入れられないのなら、何も持っていないのと同じじゃないか。どちらも満ち足りていないのだから。そこに不足がある以上、心はどこまでも渇いていき、さらなる欲が身を焦がす。
なので、人生とは「これがすべてだ」と思える何かに出会うための旅路なのではないだろうか。自分にとっては「本」がそうかもしれない。「ゲーム」だろうか、「アニメ」かもしれない。「映画」と言ってもよいか、それともすべて包括して「フィクション」としてはどうだろう。「これさえあればいい」というもの。しかしこうして考えてみるだけでも自分はあれこれ領域を広げてしまうし、最終的にはこの世のすべてを手に入れたくなってしまうのかもしれない。自分の人生にとっては、すべてがすべてだ。何を言っているんだ?
どんなものにも、そこには「世界」がある。本の世界、ゲームの世界、アニメの世界に映画の世界。フィクションに限定するとかえってわかりづらいが、例えばプロ野球選手にとっては野球の世界が見えているのかもしれないし、将棋のプロ棋士にとっては将棋の世界がすべてなのかもしれない。「これがすべてだ」と言えるもの。しかしそれは、どんなものにだって当てはまる。だからやっぱり、すべてがすべてなのだ。何を言っているの……?
こういうふうに、そこに可能性があることを考えてそれを捨てられないのは悪癖である。そこには自分がないともいえる。自分にとっての世界を捧げられる何かが見つけられないから、とりあえず手当たり次第に価値を見出して、それらすべてを追いかけようとしている。二兎を追うものはなんとやらと言うが、自分はその兎が自分にとって価値のあるものだとも知らないで、とにかく手を伸ばすものだから世話がない。自分が何をしたいのか、自分が何を望む人間なのか、それがいつまで経ってもわからないままだ。
でも人間はそういうものなのかもしれない。自分の欲望について整然と理解している人がどれだけいるのだろう? 少なくとも自分は見たことがない。そもそも欲望の話を剥き出しにして会話の俎上に持ち出すこともあまりないのだが。
自分探しとか自己分析とか、人は簡単に言うけれど、とはいえそう簡単に答えが見つかるものでもない。掴んだと思えば形を変えていて、いなくなったと思えばふとした瞬間に重力を発揮してくる。一番身近にあるはずなのに、その人がなにを考えているのかいつまで経ってもわかりそうにない。何をすれば、自分という人間は満足していられるのだろう? その答えはいつまでもわからないままで、だから世界のすべてなどわかるわけはないのに、そこに漠然と憧憬を抱いてしまう。そうなればいずれ眩しさに身を灼かれてしまうだけというのに。
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