日記:どうにかして駄目な自分を肯定したい

なんだか色々とやりたいことがあったはずなのに、スマホでゲームをしていて気付いたらこんな時間(深夜1時)である。限られた時間の中では、やりたいことをやるのと同じくらい、それ以外のことをやらないことが大事であるようにも思う。選択と集中。

では何をやりたいのか?と聞かれたら、何もかもだと答えてしまうどうしようもない精神性を抱えているので、まず治療すべきはその散漫な欲望なのだという気がする……ということを半年以上前から言っているのはきっと気のせいではないだろう。

もういっそ治らないのなら、その性格とうまく付き合っていく術を見つけるほかない。しかし何かひとつのことに集中することができない自分と、どのようにして折り合いをつければいいのか。それは、欲望をひとつに絞ることよりも難しく思える。


色々と手を出してしまうのは、換言すれば「浅く広く」ということで、つまりはスペシャリストよりもジェネラリストである、と言えるかもしれない。しかしジェネラリストと呼べるほどに広範な領域をカバーしている訳ではない。せいぜい自分のアンテナが届く範囲のことで、自分よりも深く広く知見を深めている人などたくさんいる。だから自分のやっていることは「浅く狭く」でしかなくて、それでも手一杯になっているのだから世話がない。

ではこう言い換えてはどうか。「何かに没頭して我を忘れてしまうことのない、常に冷静で俯瞰的な視点を備えている」。これも駄目そうだ。別に集中力が続かないからといって冷静だったり状況を俯瞰したりするわけではない。何もできないくせに、常に頭はオーバーヒートしているのだ。ずっと調子の悪い機械のような(機械に失礼)、四六時中うなりをあげている存在。それが自分だ。


まるで良いところが見つからないな……こうして書いているいまも頭が働かなくて、なんとか言葉を捻り出している。書けないならやめればいいのに。でも、どうにかして何らかの答えに辿り着きたいという欲求が指を動かす。欲深くて、諦めの悪い。そのくせ要領が悪いので何も叶えられない。

自分がどうにか生きていられるのは、ひとえに環境に恵まれているおかげだと思う。ひとりで何かを為せる気がしない。いつだって助けてほしいし救われたい。

「人生に答えなんてないんだよ」という言葉を信じて闇雲に生きることを肯定しようとするけれど、自分以外の人はどうやら答えらしいものを見つけているのではないだろうか。それに気づいていないのは自分だけなのではないだろうか。そんなことを思ってしまうほどには、世界が巡っていくスピードは自分にとって速過ぎる。


そうやって自分と世界の対立構造に身を浸して、それが仕方のない問題のようにして棚上げしてしまうのも悪い癖である。セカイ系の物語に生きている訳ではないんだよ。現実を少しずつでも受け止めてやりあっていくしかないんだよ。

複雑なものや苦しいものから逃げていたらいつまでも変わらないままで、周囲は変わっていくものだからただ取り残されてしまうだけだ。変わる世界の中で変わらない自分を持つためには、ついていく努力をしなければならない(昨日のライブのMCの受け売り)。

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