日記:終わることも忘れて

仕事をとりあえず納めた。ということにした。年末年始休暇に突入。とりあえず今日呼ばれている友人との忘年会を終えたら他に何も予定はない。お土産にと自分が食べたい惣菜(角煮)を買ったら手提げの袋を貰い忘れてしまい、鞄も持たずに出てきてしまったので角煮をパックのまま持ち歩く男と化している。

昨日の話の続き。いい終わりと悪い終わりがあるんじゃないかと思ったけれど、終わりは終わりでしかなくて、そこに付随するものによって変わるだけなのかもしれないと考えた。一年の終わりに対して悪しからぬ感情を抱くのは、それが年末年始休暇という安寧を伴って現れるからであって、終わりそのものに対して「よさ」を感じているわけではない。大掃除をしたり仕事を納めたりして気分はいいけれど、それは「終わり」そのものの性質ではなく、随伴するものがそういう性質であるだけだ。

「終わり」というのは、もう戻れない不可逆性を有する。過ぎ去った時間は戻らない。ただ過ぎてしまった一年に対して、後悔はあっても喜ばしく感じることはないのではないか。少なくとも、常に過ぎた時間を悔いているのに何もしない、自分のような後ろ向きの人間にとっては。

しかし一年の終わりに忘年会で酒を飲むときなど、自分はきっと過ぎ去った時間のことを忘れている。至らなかったこととか、取りこぼしたものとか、そういう後悔をとりあえずなかったことにして、ただ現在のことだけを考える。そこにあるのは過去の精算だ。終わりにあたってそれを悲しむかどうかは、その喪失を実感するかどうかにある。

それを思えば、年の暮れにあって私は「終わり」を忘れている。終わること、喪失することは取り戻せない痛みであるはずだ。けれど、年末年始の浮かれた空気が、心に空いているはずの穴をひとまず忘れさせてくれる。だから自分は年末が好きだ。そして年始があまり好きではない。それは麻酔が切れて現実の痛みと向き合うときが来てしまうからなのだろう。

でも、せめてこの年が閉じるまでは、痛みを忘れていたいと思う。

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