日記:読書の制限時間

少し前、なんとなく人生と幸福の話をしていた。答えはないからこそ難しいという話をした。答えはないからこそ自分で見つけなければならないという話をされた。きっと思考の方向性はおおよそ一致していて、自分よりも相手のほうが高い視点を持っているのだろうと思った。


生活は少し凪に突入したような気もするが、それはそれとして時間がない。平日に何かをしようと思えば、それは大きな決意によって為されるしかない。そう思うほどには、惰性で日々が過ぎて行く。世界は楽しそうなことで溢れているのに、そのすべてを味わうには、私の両の手が届く範囲はあまりに狭い。手当たり次第に手を出していれば楽しいから、ずっと闇雲に動いている。そんな日々をいつまで続けられるのだろうか。不安はいつでもそこにある。


少しずつ本を読むようにしたい。紙の本だけでも未読のほうが多いのではないかと思うほどに積み上がった山は高い。読めば読むだけ楽しいのだから、さっさと読めばいいのに、それをしないのはきっと読書に制限時間がないからだ。

例えばライブやフェスなどはその場限りの祭典であって、それに間に合うための準備があるとすればそちらが優先される。その日その時を逃してしまえば、もう2度と訪れない時間だからだ。そういう意味では非常に贅沢な娯楽であるとも言える。

自分はスマホでいわゆるソシャゲをよく遊ぶのだけれど、それらの多くは期間限定のイベントが開催されている。開催期間中にイベントを進行させればストーリーが読めたりゲームで役に立つアイテムが貰えたりする。これも逃しがたい。だからイベント終了間際になって急いでノルマを達成しようとしたりする。

劇場で公開される映画も、上映期間を逃してしまえば、映画館の大画面と音響で作品を味わう機会をほぼ永久に失ってしまうことになる。人気の映画であればたまに復刻したりもするけれど、それは稀有な例外と言っていいだろう。入場者プレゼントも欲しいなら、公開してすぐに見に行くのが望ましい。


その点で比較してみれば、読書に制限時間はない。発売してすぐに感想が流布するような作品であれば、ネタバレによってスポイルされてしまう前に読むのが望ましいが、基本的に本の内容のネタバレを踏んでしまうことはない。わざわざ感想を探しにいかなければ、同じ本を読んでいる人を見つけることすら難しい。毎週放送されるアニメや週刊の漫画と比べて、誰かと一緒にその熱狂を味わうという体験が、例えば小説のような書籍には乏しい。読書とは極めて個人的で孤独な娯楽であるとも言えるのかもしれない。読んだ小説の感想を交換することもあるけれど、それはひとしきり自分の中で読後感を噛み締めたあと、ある程度の冷静さを伴って行われるものだ。アニメなどをSNSなどで実況しながら見るような、同時性による熱狂が大きい体験とは異なっている。

それ故に、読書はいつ行われてもその体験が大きく損なわれることはない。時事性を持った内容の本であれば多少は左右されるのかもしれないが、読書という行為が生来持つ性質としては、本と個人との対話のような静かなものであって、あまり周囲の環境に依存しないという点が挙げられるのかもしれない。だから自分が読みたいと思ったときに読むのが一番よいのであって、それを待って本の山が積み上がってしまうのも仕方のないことではないだろうか。そういう言い訳はどうだろう?

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