日記:日記が書けないという日記
これまでに何度か日記を書こうとしたことはあった。しかしそれらは長くても2ヶ月程度しか続かない。極めて飽きっぽく怠惰な自分であるから、それも致し方のないことなのかなと諦めつつも、一つのことを続けられなかったという事実は己の十字架として心を重くする。
小学校の宿題以外で、最初に日記をつけようと思ったのは高校3年の1月のことだった。つまりこの時の自分は大学入試を目前に控える受験生で、何かを始めるにしてはどう考えてもタイミングがおかしい。
というのも、こんなタイミングで日記をつけようと思い立ったのには一応理由があって、その前の12月に弟から「マイブック」なるものを誕生日プレゼントとして貰っていたのだった。
これがなんなのかというと、文庫本サイズで365ページ、日付のみが書かれた白紙のページのみで構成されているという一冊で、好きな書き込みをして自分だけの1冊にできるという、そういう触れ込みの商品であった。恐らく近年でも、年末年始に書店等を探せば置いてあるのではないかと思う。
折角貰ったのだからと、よせばいいのに当時の自分は、律儀に1日1ページを日記として埋め始めた。受験勉強で疲れた1日の終わりの気分転換として機能していた向きもあるかもしれないが、やってみると案外、1ページを埋めるのには骨が折れる。なんだかんだで30分くらいだろうか。
それでも今になって読み返してみると、当時の自分が何を考えていたのかを振り返ることができて興味深い。時期が時期だけに、だいぶストレスを感じているような記述になってはいるけれど。過去の自分が何を考えていたのかというのは、記録を残していなければ振り返ることは難しい。何もしなければ失われていくだけの思考の連なりを保存しておけるのは、日記の重要な一側面であるように思える。
はてさて、高校3年生の自分は、2ヶ月ほど経ったあたりで筆を置いている。何かを続けることが苦手な自分にしては、結構頑張った方かもしれない。その後も、違う年になって同じ本のページに幾らか日記を書き付けたりしていたが、それも2ヶ月ほどで途切れていた。自分は2ヶ月しか何かを続けられないのかもしれない。
何かを続けるということはとても難しいことのように思える。こんなことを言うと時代のせいにしている気もするけれど、とにかく現代は選択肢に満ちていて、ただ意思を強く持つことができればいろんなことができる。それは換言すれば、同じことをずっと選び続けることが強固な意思を持ってしか為されないということでもあるかもしれない。他の選択肢の誘惑を振り払い、自身に課した目標を達成し続けること。自分の意思でそれを選び取ることはなかなか大変なのだろうなと思う。推測でしか書けないのは、自分がそれをできない側の人間だからだ。
とはいっても、偶に纏まった文章を記すことで自分の思考を整理することは気持ちが晴れやかになったりもするし、後になって過去の自分が書いた日記を振り返って懐かしむのもかなり楽しかったりする。記憶の外部化ではないけれど、その時々の空気を閉じ込めておく箱として、日記は有用なものだと感じるのである。
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