日記:永遠がそこにあると信じたい

ここ1週間ほどできていなかったリングフィットアドベンチャーを久々にやった。Switchを起動すると、いつもの知人が同じようにオンラインになっていて安堵した。

少しのあいだ離れてしまったことで、そこには誰もいなくなってしまっているのではないかという恐れが、ないと言えば嘘だった。知人の影を見たとき、そこに不変のものを見るかのようで嬉しかった。永遠なんてどこにもないし、なにもかも変わらずにはいられない世界の中で、少しでも変わらないものの存在が自分の心をいくらか安らかにさせるのだと思う。人は、永遠を信じられるのなら、きっと生きていけると思う。


通話しながら麻雀をする会をやった。この集まりの本質は麻雀ではなく会話である。会う機会が少なくなったり、そもそも遠方にいる相手と近況について語ったりする。でも集まる面子はほとんど同じなので、話題も早々に尽きて同じところをループするか、益体もないふわふわとした話をするかに落ち着く。そういうのが楽しかったりする。この時間が永遠に続けば、人生それでいいと思える。実際にはそんなことはないので、人は人の人生を生きなければならない。


最近の作品を見たりしていると、「人は一人で生きていかなければならない」というメッセージが強くなったなということを感じる。といっても直接的に語られることはあまりなく、自分が勝手にそう受け止めているだけで、かなり恣意的な感覚ではあると思うのだけれど。たぶん、そういう話が好きになったのだと思う。

以前はもう少し、「人は誰かと助け合って生きていくんだ」という思想に感銘を受けるということが多かった気がする。主人公サイドが絆で勝利するという展開も映える。例えそれぞれの力は弱くとも、結集することで大きな力になるという寓意は美しい。

しかし、人の絆も永遠ではない。共通の敵を失ったら結束が瓦解してしまうというのも良く聞く話で、かつて共に戦った仲間がいつまでも支えてくれるわけではない。それぞれの道があり、それぞれの人生がある。物語とは、それらの交点を切り取った瞬間でしかない。そのあとも人生は続く。


……みたいな話でいうと、この話が印象に残っているかもしれない。というかこの話に限らず『生理ちゃん』は劇的な物語ではない生活の苦しみとそれに向き合う姿勢を描いていて、その姿に自分も頑張らなければと励まされるような思いになる。

永遠はどこにもないということを知ってしまった世界の中で、それでも生きていくためには、こういう切実な物語が必要だったのだと思う。なにもかもが変わりゆく世界で、いつまでもそこにあるのはきっと自分という存在だけで、だからその中に生きていく強さを見出さねばならない。自分の中に永遠を見ようとして、それを信じている限りは、たぶん前を向いて歩いていける。


麻雀をしたため眠いので寝る!そういえば先週の日記に、休日も早く起きようということを書いた気がする。頑張りたい。部屋の整理をしたい。

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