20240824_失われる記憶

忙しさにかまけて、去年の秋ごろからとんと日記を書かなくなってしまっていた。それでも先月までは毎月つぶやきでもいいから何かしらの投稿をしようかと努めていた。noteは毎月投稿することによるバッジ(ゲームでいう実績解除のようなもの)がもらえるからだ。でもそれに縛られている自分も嫌になって、ついに7月は何も投稿をしなかったのだった。いまバッジを見たら、36ヶ月は連続投稿できていたらしいですよ。自分。すげーじゃん。もう途切れちゃったんだけどさ。


今日、恐山さんがスペースを開いていた。恐山さんは6年以上毎日日記を書いているとのことで(めちゃめちゃすげー)、その日記をまとめた2冊目の本が来月出るらしい。それをきっかけにしたスペースとのことだった。

内容は日記のことを話したり話さなかったりだったのだが、その中で恐山さんが自分の日記を検索して忘れていた記憶を引っ張り出すという一幕があり、すごくいいなあと思ったのだった。人間って忘れる生き物だから。それを思い出せなくなったら、そのときの自分は存在していないのと同じみたいな、寂しい気持ちになるような気がしない? 人が死ぬのは忘れられたときだとしたら、忘れられた時間は死んでいるのと同じということじゃない? まあそんなことはないのだろうけれど。

逆流性食道炎のことは覚えておいたほうがよいと思うけれど。


僕は死ぬのが怖い……といったら嘘になるのかもしれない。死そのものはそこまで嫌ではない。というかわからない。死はこの世界の人の誰もが経験したことのない未知で、そして未知のものは一定の魅力を備えている。死がどんなものかを知りたい、という欲求はそれなりにある。

しかし人は自らの死を経験できない。死が生命活動の終わりを意味していて、知覚の主体が生きている自分なのだとしたら、死んだときにそれを感じる自分はいなくなってしまっているのだから。だから人は自らの外側で起こる死によってそれを擬制するしかない。という考えをどこかで聞いたことがある。

自分の外側で起こる死——死という言葉が強いので喪失と言い換えようか——喪失を感じるのは苦手だ。そこにあったものが失われる。相対的にマイナス。傷つくくらいなら出会わなければよかった。云々。

目に映るすべてがこの手から溢れていってほしくない。すべてを腕の中で抱き続けていたい。それは期間限定の商品だったり、なかなか会えない友人との時間だったり、その場に行かなければ体験できないライブだったりする。そしてその中に、ふとした瞬間の自分の記憶も含まれている。


失いたくないから日記を書いている、という側面は多分にあったと思う。昔の日記を読んでみれば、「あんまり変わってないな」と思うくらい、ほとんど同じことを書いているのだけれど、でもそんなことでも失いたくないなと思う。他の誰にとっても無意味な記憶も、せめて自分だけはとどめていたい。そういう恐れが、自分がかつてしばらく日記を書いていたモチベーションのひとつだったように思う。

多分こういうことも昔に書いている気がする。やっぱり変わっていないんだなとも思うけれど、しかしこういう自分の内面は、日記として言葉にしようとしない限り、曖昧なまま自分の心の中で漂い続けていただろうから、言葉によって輪郭を与えられて少しはよかったのかなとも思う。自分の内面を考える機会ってそんなにない。そうじゃないことのほうがこの世にはたくさんあって、油断するとそういうものに押し流されていってしまう。それが悪いとはいわないけれど、何かが失われてしまう気がして怖い。曖昧な恐怖。

日記を書いていれば自分がどんなやつなのか少しはわかってくるかと思っていたけれど、2年くらい続けてもよくわからなかった。というのが現状の自分。日記が今の自分の状態を保存するセーブポイントだとして、そのデータは2年前からほとんど進捗していない気がしないでもないけれど、しかし自分はとにかくたくさんセーブデータを作らないと不安で仕方がない性格なので、これからもまた不定期にセーブしていきたいと思う。とりあえず今日はこんなところで。

また夏が終わる。気づかないうちに。

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