日記:どこから言葉を持ってくるのか

頭がどうにも疲れているので考えて書くということができそうにない。という訳で今日の日記は手癖に任せて綴ることにする。

最近はそれなりに時間をかけて日記を書くことが多かったので、書きたいトピックに対して逐一手を止めて自分の心の中から最もふさわしいと思える言葉を探し出してきて、それを当てはめていくという作業を繰り返していた。それで自分の表現したいものに近づくことはできるものの、それなりに時間はかかってしまう。

そもそも、自分の中に正確な言葉が無ければ、それを表現することはできない。今はなんとか間に合わせの語彙で継ぎ接ぎしていくことで一つの主張を織りなそうとしてはいるものの、それはそのときの自分の中にあるものの中での精一杯であって、もっとふさわしい綴り方は他にあるのだと思う。それを実現するためには調べものをしながら書き進めていくことも重要だとは思うのだけれど、そこにかかる労力に辟易してしまって、結局は自分の中から探し出そうとしている。でもそこに大したものが眠っているわけでもないので、出来上がるのはそれなりのものでしかない。自分の思考を整理する分にはそれなりに役立ってはいるのだけれど。

文章の内容をもう少し上等なものにするためには、外部からそれを持ってくるか、自分の内部にそれを貯めこんでいくしかない。どちらにしてもインプットすることが肝要で、できるだけいろんな表現に触れていきたいと思う。そして思ったことを忘れないように書き留めておくということもしなければならない。一度見たくらいですべてを覚えていられるほど、自分の記憶力は卓越していないし、現代を飛び交う情報量は膨大である。思ったことを自分の言葉で綴るという作業を介することで、それは参照可能な外部記憶となるのだと思う。自分の血肉になるまで内部に取り込むのはそれを何度も反芻しなければならなくて、ひとつの情報に深く浸かっていることができた学生時代ならいざ知らず、ただでさえ時間が足りない足りないと嘆いている今の状況では、一度触れたものをなるべく忘れないようにするという方向性が適しているのだと思う。

上で触れた外部記憶の話も、最近どこかで見たことがある気がするのだけれどもう忘れている。攻殻機動隊じゃないところで見かけた気がするのだけれど……。思い出せないな……。

なのでもっと積極的に触れた情報に対して思ったことを書き残していきたい。そうすれば忘却の頻度も少なくなっていくのではないだろうか。


それはそれとして、自分は何かの感想を書こうとすると、結構時間が掛かってしまうという問題がある。今日の日記のように自分の思っていることを無責任に書き散らしているなら、比較的時間もかからないし打鍵する指も軽いのだけれど、何かに対して意見を書くとなるとあまりに適当なことを喚くわけにもいかない。思考は慎重になり、自分の中に言葉を探して時間が過ぎていく。

でもそれは仕方のないプロセスなのかなとは思う。そもそも、そうやって立ち止まって自分の中で言葉にする時間が必要なのであって、それが追いつかないほどのインプットは結局のところ右から左へ脳内を過ぎ去っていくだけで記憶に定着しない気がする。一つ一つの情報と丁寧に向き合い、それを他の情報と比較検討し、共通項や相違点を見つめていくことをせずには、それを活かすこともままならないだろう。時間に追われて数を求めようとするのではなく、もう少し遅々とした歩みを選ぶべきなのかもしれない。



「ちゃお」のweb版「ちゃおコミ」に掲載された『笑顔の世界』という短編が話題になっていたので読みました。

恐ろしい……。「ちゃお」って読んだことがないのだけれど、こういう作品が載ってもいいくらいにはある程度高めの年齢層がターゲットなのだろうか?

wikipediaによると現在は小学校低学年が主な対象読者層となっているようだ。それにしては上記の短編はダークすぎる気がするけれど……。web版だから対象年齢層が上がっていてもおかしくはないか……。それにしても、自分が小学校低学年の頃にこの作品を読んだとしたらトラウマになってもおかしくはない。それだけのインパクトがある。

こういうディストピア的な世界が到来したとして、それは受け入れるべきなのかどうかということをたまに考える。作中でもあったように、手術して苦痛が完全に消え去るのであれば、それはそれでよいことなのではないか。世界の外側である我々が見ると作中の世界は不気味に映るし、途中まで主人公にとっても違和感を抱く世界ではあったわけだが、それが最後で鮮やかに反転する。主人公も含めて、そういう世界に生きている。そこから見れば、苦痛もないし不満も解消される合理的な体制なのかもしれない。

人間には「共感する力」があるから、そのような体制下で虐げられる人に対して感情移入してしまうことで、それを維持することに耐えられなくなってしまいそうなものだけれど、その感情すらもコントロールされてしまっていたとしたら、もうそういう世界でしかないのかもしれない。完全に保証された幸福が永遠に続く構造だとわかっていれば、それを受け入れるべきだろうか?そのような支配体制が机上の空論であることが前提にはなるけれど、しかし誰もが幸福なディストピアというのはそれなりに甘美な誘惑でもある。それは苦痛のない自殺と似ているのかもしれない。

しかし、社会の構造がそのように移行するとして、その変わり目に立ち会ったとしたら自分は反対しそうな気もする。どうしたって現状の倫理観でものを考えざるをえなくて、その感覚からすると隣人の犠牲を明確に前提とした社会というのは余りに気味悪く映る。じゃあ現代の社会も誰かを犠牲にしていないかと言うとそれはまた考えてしまうのだけれど。



というか8月ももう下旬なのですか?早くない?時の流れはどんどん加速していく。恐ろしい……。

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