日記:熱の正体
外から押し寄せるニュースに一喜一憂している。自分にとって嬉しい報せであれば心が躍るし、そうでなければ気が塞ぐ。でもそのどちらも外部からもたらされたもので、自分の内側から生じたものは何もない。そういうとき、自分は空っぽな人間だなと思う。
自分は本当はやりたいことがないのではないかと思う。ただなんとなく他の人を真似てそれらしい欲望を抱いてみるけれど、それを心の底から望んでいるのかと問われれば自信がない。周囲の人間に話を合わせるためだけに、誰かと同じものを好きになっているだけなのではないだろうか。他の人がそうしている(と自分の目には映る)ように、好きなものに熱中して打ち込みたい。熱だ、そこに熱がなければならない。そうでなければ何もはじまらない。
熱、と一言で片付けるのは簡単だが、その実像を掴むのは難しい。熱を持つ人とそうでない人の境界線はなんだろう。ひとりでに走り出すことができるか否かであろうか。しかしその両者を分つ壁はなにか考えてみると、そこに熱があるかどうかとも言えるような気がして、結局は堂々巡りに陥るような気がする。ただの言い換えではない、本質的な差異がなんであるのか、それはどうにもわからない。
こう考えてみてはどうだろう。熱は誰にでもある。それが表面化するか否かという違いだけだ。熱を持っていると周りから思われるような人は、単にそれをアウトプットする能力が高いだけで、内心に抱えているものは、誰しもほとんど変わらないのである。だから、熱がないと感じるとき、それは単に熱を表に見える形にするのが苦手というだけの話なのだと。
つまり私は、自分の心の中に渦巻く感情を単に整理できていないだけの話になる。あるいは、たくさんの欲望がないまぜになって、結局どれが自分にとっての熱源なのかがわからなくなってしまっている。とにかく、自分の熱を扱いきれていない。だから解決手段は、まず自分の熱の正体を見極めることにある。具体的な行動に連結するまで自分の熱を整理していけば、あとは自ずと発火していくだろう。
だが、たとえ自分の熱の乏しさの原因がそういうことなのだとしても、ただ燻るだけの現状が変わるわけでもない。最初からそれができていれば世話はない。熱の正体を見極めることが天賦の才なのだとしたら、結局自分にコントロールできないパラメータが存在するという事実は変わりようがない。熱は制御可能なのか否か。コントローラブルなものを熱と言うのも奇妙な感覚があるから、やはりそれは自分ではどうしようもない現象のことを指しているのかもしれない。ただそうだとしてもやはり、熱に浮かされるように生きたいという憧れは消えてくれないが、その憧憬こそ自分の熱のなさを証明しているようにも思えてならない。
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