日記:膝をつく者に祝福を

2022年2月22日2時22分22秒が間近に迫っているって本当ですか? まあだからといって何をするわけではないのだけれど……。しかしこれを逃してしまえば少なくとも100年経つまでは同様の2の羅列を目にすることはないのだと思うと、なんてことはないのに妙に浮き足立ってしまう自分がいる。それがなんとなく嫌だ。

要はそこになんらかの期待をしてしまっているわけで、そして期待とは叶うか裏切られるかのどちらかなわけで、そしてこの2の並びを前にしてなにをすれば期待に沿う結果となるのか皆目見当もつかないわけで、だとすればはじめからこの期待は裏切られることが決まっているわけで、最初から負け戦だとわかっていて挑むようなものなわけで……。

デジタル時計かなにかを用意してスクリーンショットでも撮ろうかと思ったが、しかしそういう企図をすると自分は失敗してしまいそうな気がする。そして挑戦してしまったが故に、そこに落差が生まれてしまう。はじめから激しい喜びも悲しみもない静かな生活を選んでいれば、こんなに苦しい思いをすることもなかったであろうに、手を伸ばしてしまったばかりに痛みを覚えることになる。

じゃあ。なにも期待せず欲しがらず、目も耳も塞ぎ足を止め、小さな部屋の戸を閉めてただ傷つかずに死んでいく。そういう人生が正しいのだろうか? それは違うというのなら、痛みを負うとわかっているのに歩き出すのはなぜなのか?

残念ながら、その問いに対する明瞭な回答をいまの自分は持ち合わせてはいない。「挑戦はそれだけで価値あるものだから、敗北にも意味がある」とは言えない。ただそれだけを取り出して比べるのなら、敗北よりも勝利のほうがいいし、失敗よりも成功のほうが優れているに決まっている。「結果よりも過程が大事だ」と言えるのは、人生には数多の判断基準があって、必ずしも短期的な結果が長期的な成功に結びつくわけではないからだし、1つの側面における成功が他方面ではそうともいえないこともあって、絶対的な成功を誰も定義できないからという理由もあるのだと思う。そういう雑音をすべて取り除いて、ただ失敗と成功とだけを比べてみれば、きっと誰だって成功を選ぶことだろう。

しかし、いま捨象した部分がそのまま反論にもなる。失敗がすなわち人生の敗北ではないし、たとえなにもかも負けばかりの人生だったとしても、視点次第では光を見出すこともできる。そのように言えるのは自分がただ幸福でおめでたい頭をしているだけなのかもしれないが、1つの失敗ですべてが駄目になるわけではないし、きっと1度きりの喜びがそれ以外のすべてを超える輝きになることもある。人生はなにが起こるかわからない不定形で、だからこそ絶望も希望もあって、それなら前を向いたほうがなにかと都合がよいのかもしれない。もしも倒れそうになっている人がいたら手を伸ばしてやりたい。それはきっとかつての自分でいまの自分でいつかの自分で、そこから歩いていくことこそ敗北を敗北としない真の勝利であると信じるからである。

おやすみ……。

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