日記:中途半端な自分でも
ぜ〜んぜん日記更新できてない。すみません……。それだけやるべきことやりたいことがあるのだいうことにしておこう。昨日はFGOとブルアカのイベントを駆け込みで進めていただけだけれど……。
まとまった時間はなかなかないけれど、電車での移動中とか食事中とかちょっとした時間を潰すのに動画コンテンツは向いている。視覚聴覚をいい感じに埋めてくれる。ご飯を食べながらだと味覚嗅覚も使っているし、触覚もなにかしら感じて入るから、五感を結構忙しく動かしているわけだ。だからいいということでもないのだが。YouTubeで登録しているチャンネルの、未視聴の動画を見ている。自分がよく見ているのはオモコロチャンネルとQuizKnock。クイズ企画を見てなにかしら学びを得てもよいはずなのだが、見終わるとほとんど何も覚えていない。本当に時間を潰しているだけだ。自分という人間はそういう怠惰なやつなのだ。
たまに知らない動画が目に入る。偶然の遭遇も大切にすべきかと思って、気が向くと再生している。そうして昨日はこんな動画を見ていた。
大量の本をどう読むのかというテーマでいくつかの手法を紹介している動画。現代は情報過多の時代……とはいうけれど、活版印刷によって本の流通が増えたくらいの時代からそういうことは言われていたらしい。言われてみればそうか。世界中のすべての本を一生かけても読みきれないというのは、割と昔からある悩みではあったわけだ。西尾維新の<戯言>シリーズには、この世のすべての知識を生きているうちに知ることができないとわかって絶望する人物が登場するが、そうした絶望はずっと人々を悩ませてきたのだろう。
だからと言って本を読まない理由にはならない、と上記の動画では語っている。本から得られる情報をみすみす手放すことはない。0か100かではない、その間できっと人は生きていかなければならなくて、どうしたって中途半端な自分を受け入れながら、それでも前に進むことを諦めてはならないのだと思う。ブルアカでアズサもそんなことを言っていた気がするし。
たくさん本を読みたい。そのためのテクニックとして「最初と最後を読んで全体を掴む」「書評を読んで注目するポイントを把握する」などといった手法がいくつか動画で紹介されていたのだが、それはどれも学術書の類に適応可能な技ではあるものの、小説となると難しいみたいだった。ネタバレの問題があるからだ。面白い小説を読みたい。できればネタバレがない状態で。
しかしそうやって自分に刺さるものを見つけるのは難しいことなのかもしれない。学術書と違って、そこまで読むのに時間がかかるということもないけれど、それでも限られた時間ではどうしたって読める本の数も限られてくる。
自分は、自分と興味が近そうな人が面白いと言っていた本を読むようにしていて、それはあまりはずれたことはないけれど、しかしアンテナに引っかからないけれど面白い本もたくさんあるのだろうなと思う。自分が本当に面白いと思える本についぞ出会えないのかもしれないと考えると、なんだか悔しいやら悲しいやらで絶望に身を浸したくもなるのだが、それでもやっぱり進み続けるべきなんだろう。歩き続けていたら、いつか運命に出会うかもしれないから。未知は絶望であり希望でもある。
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