日記:「好き」を続けるために
知人と通話をした。本の感想を言い合う会。しかし課題図書を読むのをすっかり忘れていたから、ここ2日間で慌てて読んだ。最後のほうは間に合わせるために駆け足になってしまったので、もう一度読むことにする。
外から読書の理由が与えられるのは得難きことであるように思う。趣味で読んでいるのだから、自分で好きに読めばそれでよい。だから本来、その理由は決して外部化されえないようにも思える。好きに読めばよいし、それが続かなくなったらそこでやめればよい。
しかしえてして人は、何かを好きでいなければいけないようである。誰かと話していても「休日は何してるの?」とは頻出の質問で、ちゃんと対策を練って回答を用意できなければ、会話はうまく弾まない。「昼まで寝てて、あとはあまり知らないYouTubeの動画を流しながら、あまり熱心でないソシャゲの周回をしていたら土日が終わってました」というのは極めてつまらない。だが私の現実とはこんなものである。
かつてはアニメやゲームが好きだったし、1つの作品に熱狂して昼も夜もなく画面に向かい続けていたこともあった。今の自分はそんな過去の熱が惰性で続いているだけの存在だ。昔ほどの熱量で何かを追いかけることもできないし、きっとそんな時間もない。ふと、何のために生きていたのだったかわからなくなる。そう思うほどに、昔は自分の「好き」が世界のすべてだった。
別に好きで生まれたわけでもないが、しかし生きているのはきっとまだ何かを好きでいるからだ。思うに「好き」とは自分の価値観の根幹を成すもので、それがあるから生きていこうと思える何かのことを指す。だが「好き」とは無限ではなく、むしろ漸減していくことは自らの経験から推測できる。少なくとも、一度それと定めたものを、無条件に好きでありつづけることが困難であるということくらいは言ってもいいものだろう。なればこそ、「好き」を続けるための努力は欠かせない。それを持っていなければ、多分自分は何かを見失ってしまいそうな気がする。
何も1つのことをずっと好きでいつづけなければならないわけではない。価値観は時と共に変わりゆくもので、自分の心が向く先は常に動き続けていても構わない。大切なのはそれが少なくともどこかを向いているということで、きっとその方位磁針が指す方に、人生の答えのようなものが存在している。それにたどり着けなくても構わない。その場所に向かって歩き続けていられるのなら、人はそうやって生きていける。常に希望の灯が胸にともっていることが肝要なのであって、つまりはそれが「好き」という感情なのだと思う。
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