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日記:桜が見る未来

桜が咲いている。仕事の休憩の合間にでも見に行こうかと思ったけれど、心のどこかで躊躇してしまう自分がいた。すぐに散ってしまう桜という存在の儚さを、ただ白く美しいというだけの理由で鑑賞のために消費してしまうことが嫌だったのかもしれない。あるいは、期間限定のイベントに踊らされているだけの自分の単純さを思い知らされるようで目を逸らそうとしていたのかもしれない。

それでも結局は年に1度の機会という誘惑に負けて桜を見に歩くことにした。周囲は少し薄暗くなっていた時間だったけれど、それだけに白い花弁が映えるようで、不自然なくらいの花盛りをただ「綺麗だな」という感想のほかには何も思うことなく眺めていた。毎年見ているはずの美しさだが、私の物覚えが悪いのかいつも新鮮な心持ちで桜に見蕩れてしまう。過去に見たはずの桜並木はモノクロのようにしか思い出されなくて、だからいつだって目の前の桜が一番美しいと思える。思い出補正とはそれを覚えていられるからこそ成立するのであって、つまりは自分にとって桜の記憶とは毎年忘れてしまうほどに淡いものなのだけれど、春になれば思い出したように桜を見に行きたくなる。噂やニュースの熱に浮かされやすい性質だという自覚はあるものの、いまこの桜を綺麗だと思う気持ちは嘘ではないのだと信じている。

近くの桜の名所を知っているわけでもなかったので、ただ適当に思いつく方へと歩いていった。特に公園でもないのに街中にただ1つ鎮座ましましている桜の樹もあって、この桜にはどのような歴史があったのだろうと想いを馳せる。桜は生物だが動物のように動き回ることがなく、ただそこにあって時間の流れを見守っているから、そこにどうしてもその場所の歴史を重ねて見てしまう。きっとこの街の移り変わりと共に時を過ごしてきたのだろう。昔の誰かが、春に花を咲かせることを祈って苗を植えたのだろうか。未来のことを想いながら現在の行動を選択する。未来とはなかなか思い通りにはいかない儚く脆い存在であるからこそ、その未来を考えることは素晴らしいことだと思うし、そしてそのように未来を向いて生きていくべきなのだと思う。

歩いていて通りがかった公園には、まだ小さい桜の樹もあった。未来に美しい花を咲かせることを祈って、誰かが(おそらくは自治体の担当者が)桜を植えることを決定したのだろう。世界はきっと続いていって、それがいつかどうしようもなく未来になる。だからそのための行動をどうしたって選択しなければならない。人は前に進んでいく生物だからだ。

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