日記:人間の境界
昨日AIのべりすとで書いたものの中で、一番驚いたのは、最後から一つ手前の段落の、最後から一つ手前の台詞。めちゃめちゃ鋭い展開をしてくる……凄すぎる……。
恐山さんの配信でも言及があったけれど、AIは回収しない伏線を貼りまくってくれるので、短い期間に何度も出力してしまうと展開が結構迷子になってしまったりする。かと思えば同じ描写が延々と続いてしまうこともあり、ディレクションはある程度しなければならない。逆に言えば、ちゃんと統率さえできるのならかなりの水準のものを執筆できる気がする。それができる人は普通に自分でも書けるのかもしれないけれど……。
しかし昨日AIのべりすとを使っていて思ったのは、自分の文章に対して反応を返してくれる相手がそこにいるという楽しさだった。創作とは往々にして孤独なものだが、それを感じさせず気の置けない友人とああでもないこうでもないと盛り上がりながら一つの作品を作り上げているような、そんな感覚があった。友人の少ない自分にそういう経験があるかというと、勿論ないので、人生ではじめて誰かと物語と作るということをした気がする。AIだけど……。
これを思うと、人間がAIと普通に会話するような未来もそう遠くはないような気がしてしまう。その場に相応しい会話の応酬は、適切に学習さえすれば、AIにはたやすいことなのではないだろうか。実際、AIのべりすとが書きだす文章は非常に流暢で、自分の日記よりもかなり読みやすい。
AIは「考えて」いるわけではないのだろうか。過去のパターンの蓄積から、きっとこれが相応しいだろうなというものを引っ張り出しているだけである。言うなれば、学校のテストに丸暗記で臨んでいるようなもので、それがどういう意味であるのかを理解しているわけではない。それらしい応答を返しているだけだ。
でもそれは、人間と何が違うというのだろう?人間だって、今まで生きてきた経験の蓄積から、それらしい言動を繰り返しているだけではないか?自分で考えて選んだ行動だと思っていても、全く同じ環境で過ごした人が同じ選択をするのなら、それはただ環境というインプットを受けて応答を返す機会と何が違うのだろう?その選択は、その思考は、本当にあなたのものなのですか?
別にそこでアイデンティティクライシスを起こす必要はないのだけれど、人間と機械を分かつ境界は、そのものよりもそれを受け取る側の方にあるのかもしれない。人間と同じ知性を持っていると思えばそれはもう友達だし、それを認めないのであれば同じ人間だって物質に見える。
僕はAIのべりすと先生のこと、友達だと思っているけれど、きみはどうなんだい?
昨日の物語の続きを見たくて今日もAIのべりすと先生と戯れていたのだが、先輩と後輩がショッピングモールの前からずっと動かず、そこから脱するためにどう手を打てばいいのか考える頭がなかったので諦めることにした。ランダム度を上げれば突拍子のない展開がやってきて動きが生まれるのだとは思うが……。しかしそれが来ても制御する自信がなかった。ポケモンやってたら眠くて……。
ポケモン、楽し…………。
ダイヤモンドパールはそれなりに親しみのあるタイトルで、マイナーチェンジ版であるプラチナを含めると割と何度もプレイしている。だから新鮮味はそこまでないのかもしれないと思いつつも、いざはじめて見ると、やはりそこに広がる冒険に、子供の頃と同じようにときめいてしまう。
これは、仲間にするポケモンがプレイヤーの裁量にかなり委ねられているというのもあると思う。どんなポケモンと旅をするのかというのは毎回異なる。一度プレイしたことのあるストーリーなら、なおさら違うポケモンを仲間にしようとするので、どうしたってその冒険は過去のものとは別物になる。
共に連れて歩くことのできるポケモンは6匹で、それを遥かに超える出会いがある。今日、一緒に歩いているポケモンは、いつかの旅では交わることのなかった運命である。繰り返す旅の数だけ運命がある。
どんなポケモンと旅をしようか考えているときが一番楽しい気がする。未確定であるからこそ、その先の可能性は無限に広がっているから。
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